ナスカの地上絵 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
ピスコから小型のプロペラ機に乗って、ナスカまでを往復する。
飛行機の席はくじ引きで決めた。12人乗りで、12番が当たった。つまり最後部席だ。2列の座席でどの席も窓から外がよく見える。
しかし、後で、わかったことだが、この席は最悪だった。小型だからゆれるのだが、後部席はもっとも揺れが激しいのだ。
飛行機が飛び立つと、すぐに海が見える。だが、薄い霧がかかっていて、ぼんやりしている。砂漠地帯だから雨が降るということはないだろうけれど、いつも曇っているように感じる。
飛行機は海沿いに南下していく。砂漠地帯に川が流れているところだけが、植物が生えていて緑になっているのがよくわかる。この川はアンデスの雪解け水だ。水が干上がって流れの跡だけが残っているところもある。
川が見える。
ナスカの上空に来たらしい。パイロットが英語で説明しながら、窓からよく見えるように、機体を傾ける。反対側の人たちにもサービスするために、今度は大きく、ぐるりとまわって戻ってくると、反対側に機体を傾ける。なにか見えてきた。
だが、このあたりから、飛行機酔いが始まってしまった。ブーンと飛行機が旋回するたびに、吐き気を催し、目もあけていられない。
ファインダーを見ないで、シャッターを押す。
道路と車と、地上のミラドール(展望台)が見える。そのそばには、クモやサルみたいな絵が見える。
あまりの気分の悪さに、カメラをやめて、ぼんやりとしていた。
平野から少し山のほうに向かった。草木がまったくみえなくて、黒い岩が横たわっている。
砂漠と黒い岩。
なんだって、こんなところに絵を描いたんだろう。
パイロットが山肌になにかがあると叫んでいる。
お、宇宙人だ。山肌なので、機体を傾けなくともみることができた。
どうやら、地上絵の見物は終わったらしい。飛行機はまた水平飛行に入り、少し気分が回復した。
ここから30分ほどで、またピスコへ戻った。
ピスコの海岸べりのレストランに入ったのだけど、飛行機酔いが残っていて、食事がのどを通らなかった。
レストランの前の海は、気分を落ち着かせてくれる。
ツアーの人たちの中で、一番飛行機酔いがひどかったらしい。
やっぱり、最後尾の席がよくなかったのだ。
それと、カメラ。ファインダーからのぞいて、1点をじっとみているとよくない。
ナスカの地上絵の写真は、専門家にまかせるべし。
クスコを素通り [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
朝の3時にリマのシェラトンホテルに到着して朝6時半にはホテル出発、ピスコからナスカまで地上絵を見るために飛行機で揺られて、夕方の19時過ぎに、またシェラトンホテルに戻ってきた。ピスコからのバスでは、飛行機酔いのためにぐったりとしてしまい、1枚も写真を撮っていなかった。
夜8時の夕食も、時差ぼけと飛行機酔いで、食欲がわかない。
ビュッフェ方式でぐるぐると見て回ったら、お寿司みたいなのがあった。海苔でごはんを巻くのは、ついに世界的に認められるようになったらしい。
ピスコサワーというのが、ウェルカムドリンクで出された。下の写真の白い飲み物。ピスコとは、ナスカへ行く飛行機に乗ったところの地名だが、そこで作られる飲み物なので、ピスコサワーと呼ばれている。ぶどうの蒸留酒にレモン、卵白、シロップなどをまぜてあるとのこと。結構アルコール度数が高くてきついのだが、柑橘系のさわやかさとシロップの甘さで、どんどん飲めてしまう。
ピスコサワーのおかげでぐっすり眠れた。成田を出発してから3日ぶりくらいになるのかしら、お風呂に入ってベッドで横たわったのは。
観光2日目。
いよいよマチュピチュに向けて出発だ。
リマの空港から、飛行機でクスコまで行き、そこからバスでオリャンタイタンボまで行き、さらに展望列車に乗り換えて、マチュピチュの麓まで行く。なんとも大変なことだ。
リマの朝は、やっぱりどんよりとしているが、仕事に出かける人たちであふれかえっていた。バスが重要な交通手段になっていて、きめ細かく行先が決められているらしい。
リマからクスコへは、1時間のフライトなのだが、それが、お客が少ないからということで、乗る予定の便が飛ばなくなってしまった。次の便は、1時間後だ。なんだかんだで、9時出発予定が、11時半出発になってしまった。
以前、パタゴニアに行ったときも、やはり国内便が遅れに遅れてしまったのだったが、どうも、南米の国内便は、遅れることが当たり前らしい。
ようやく出発した飛行機は、窓際席ではなかった。予定していた飛行機の座席番号は、窓際だったのに、欠便になったために、座席はごちゃまぜにされたのだ。
クスコの標高は3400m。飛行機でいきなり高地に来た。
海沿いのどんよりしたリマと違って抜けるような青空が見える。
空港から出て青空の下にくると、いっぺんにご機嫌になるから、やっぱりお日様は偉大だ。
だけど、飛行機と民家が隣り合わせでスリル満点の飛行場だ。3000mの高地だと住むところも飛行場にするスペースも厳しいのかもしれない。家がぎっしりつまっている。
インカ帝国の皇帝パチャクティの像がそびえていて、かつてのスペイン領も、今はインカの末裔の人たちの国になっていることを示している。15世紀にパチャクティは、クスコを中心としてインカ帝国をつくりあげた。その後インカ帝国はスペインに滅ぼされたが、今でもパチャクティは、クスコに君臨している。
飛行機が遅れなければ、クスコの遺跡めぐりが行程にはいっていたのだけど、なくなってしまって、バスで通り過ぎるだけ。それでも市内の風景は、日本とは違った表情を見せていて、なかなかおもしろい。
あら、KARAOKEって看板が・・・カラオケも世界的ですねぇ。
このおばさま、肩の荷物がインカ風。
街角で、行商のおばさまの帽子もなんとなくインカ風。街灯の緑の柱がとっても立派。これはスペイン領時代のものですね。
なんとなくスペイン風の町。
インカのおばさまと、旅行者。
バケツリレーで崖の石積み。すごい風景ですね。
あちこちで工事が行われている。人海戦術でやるらしい。坂の町は大変だ。
ここのおばさまもインカそのもの。
インカのおばさまと犬と。
クスコからマチュピチュへ、豊かな田園風景 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インカ帝国の首都だったクスコはアンデス高原の高いところ、標高3400mにある。これから向かうマチュピチュ村の標高は2000m。1400mもこれから下っていくことになる。
ペルーの首都、リマは海岸沿いにあるが、ナスカの砂漠地帯と同じように雨の少ないところだった。そしてクスコを抜けると、アンデス山脈をはさんで、海とは反対側の内陸部になっていく。そして気候は、マチュピチュが近づくにつれ、熱帯雨林のしげる地域へと変化していく。マチュピチュは、もうアマゾンに流れる支流を持つ地域になるのだ。
バスはクスコを抜けると緑の豊かな農村地帯に入る。
下り坂で、細いながらもよく整備された観光用の道路なので、猛烈なスピードで駆け下りていく。
お葬式でもあったような雰囲気。
野菜が植えられている。ほとんどはじゃがいものよう。
ちょっとした町を通り抜ける。
世界中からマチュピチュへ集まってくる人たちは、クスコからこの道路を通って電車の便のいいオリャンタイタンボまでいくか、あるいはクスコからその電車に乗るかのどちらかになる。クスコからの電車は本数が少ないので、ほとんどの観光客は私たちのように、この道路をバスで行くことになる。
だから、途中にもしゃれたホテルやレストランがところどころに見えるのだ。
なんだか落ち着く風景。
ヨーロッパを走っているようだ。
ちょうど夏。菜の花やじゃがいもの紫の花が畑一面に咲いている。日本にもペルーから農産物を輸入しているけど、こういうところで作られているのね。
トイレ休憩のところには、しっかりと露店のみやげもの屋がある。
旅行も始まったばかりで、商品がものめずらしいものの、あんまり買う気がおこらない。アルパカのマフラーや手袋が並んでいる。
トイレの屋上にかわいい服の子供たちがいたが、写真をとるとお金を請求されるらしい。下の町からわざわざ景色のいい観光客用の休憩施設まで上がってきたのだ。
休憩所から見える田園風景は豊かに見えるけど、畑の区画が、狭いようだ。大規模農業はやってないのかな。
バスは再び猛スピードで疾走する。素晴らしい景色が飛んでいく。
平らな水田のような畑にはしないで、斜面そのままを使っている。日本だと棚田にするだろう。
結構、民家が続く。
バスはこういう景色に目もくれないでいちもくさんに下って行く。
と思ったら、峠道にさしかかったらしい。雪山が見える。
ペルーの景色の多様さは世界でもめずらしいのではないかしら。
サボテンも見える。サボテンとアンデスの雪山と菜の花と、おもしろい取り合わせ。
マチュピチュ村までの電車 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
バスが峠を越えると、町が見えてきた。オリャンタイタンボだ。
ここから電車に乗る。
バスでマチュピチュ村に入ることはできないのだ。
ウルバンバ川まで降りてきた。この川はアマゾン川の支流だ。
蛙そっくりの山。有名な山らしい。
バスは、電車の駅をめざして村の中を走る。
家族でなにか農作業をしている。種でも採ってるのかな。
この子供たちはきっと、モデルだろう。観光客相手にポーズをとってお小遣いをかせいでいるんじゃないかな。
ようやくバスは、オリャンタイタンボの駅に到着した。
オリャンタイタンボとは、妙な名前だが、昔、オリャンタイさんという人が、ここで旅人のために宿を提供していて、タンボとは宿のことなんだそうな。つまり、新宿とか原宿といった感じかな。
電車では荷物制限があって5Kgまでしか持ち込めない。だからスーツケースはマチュピチュには持っていけない。スーツケースは、クスコのどこかに置いてあるはず。マチュピチュで2泊したら、またクスコに戻っていくのだ。とはいっても、電車に乗るときに、荷物のチェックがあるわけでもないのだが。
なので、2泊3日分の荷物を小型ボストンバッグに入れて電車に乗り込む。これが結構面倒だ。マチュピチュが暑いのか寒いのか、わからないので、結局、荷物が増えてしまう。
駐車場から駅までの短い道路はびっしりと土産物屋が並んでいる。写真右側がお店。
電車がみえてきた。プラットホームも電車のレールも同じ平面にある。
マチュピチュまでの電車は3種類ある。
ハイラム・ビンガムはヨーロッパのオリエントエクスプレスそっくりだ。停車しているのをちらっと見たのだが、各テーブルごとにおしゃれなスタンドがついている。それもそのはず、会社が同じなんだって。往きはランチ、帰りはディナーつきという高級列車だ。ハイラム・ビンガムという名前はマチュピチュ遺跡を1911年に発見した考古学者の名前だ。
ビスタドームは普通の観光客向け車両で、私たちはこれに乗った。
もうひとつは、バックパッカーと呼ばれて、なにもサービスがつかないらしい。
ビスタドームは、天井まで窓がついてあって視界が広くなるようになっている。通路をはさんで2列ずつ。テーブルがついていて、ちょっとしたおやつが出る。
おやつは、菓子パン2個とドリンクだった。
ドリンクは選べるようになっていて、コカ茶を飲んだ。コカ茶はティーバッグになっていて、記念に紙袋も写した。
このコカ茶、日本への持ち込みは禁止されている。薬物になるらしい。アンデスのような高地では、コカ茶が高山病にいい、と言われているので、いつもコカ茶を飲むようにした。なかなかおいしい。
電車に乗ったオリャンタイタンボは標高2800m。そこから電車はウルバンバ川に沿って、標高2000mのマチュピチュ村まで下っていく。往きは、左側が渓谷、右側が山、それも崖になっているので、土しかみえない。往きは左側に座るべきだが、座席指定になっていて、あいにく山側だったので、カメラはやめた。
電車は川の流れのすぐそばを走っているところもあり、これだったら洪水にでもなったらひとたまりもない。
何年か前にマチュピチュへ行く予定になっていたのが、大洪水で線路が破壊されて、直前で中止になったことがあった。そのときは、川を渡る橋でも流されたのかと思ったのだったが、線路は川ぞいにマチュピチュ村まで続いているのだ。
さて、クスコからマチュピチュ村までは、およそ100kmの道のりだ。半分はバス。半分は電車。バスは速いが、電車は、単線なので、途中の待ち時間が長い。何度も反対側の電車待ちで待たされた。もともと観光客用の電車なので、のんびりと走る。クスコからマチュピチュ村まで電車だと4時間もかかる。この半分をバスにすることで、時間を短縮できるのだ。
結局、マチュピチュ村に着いたのは、夕方の5時過ぎ。朝7時過ぎにリマを出発してクスコまで飛行機、そこからバスと電車でようやく、マチュピチュ遺跡のふもとにあるマチュピチュ村に着いた。やっぱり遠い。
この写真、日本の温泉郷みたいだけど、ここがマチュピチュ村。アグアスカリエンテスというのが元の名前で、温泉が湧くという意味だそうだ。この川の奥に温泉プールがあるので、ツアー仲間の何人かは、入りに行った。ぬるいお湯で、水着を着てはいるのだそうだ。泳ぐわけでもないし、温泉としてくつろぐのでもないし、ちょっと中途半端な感じ。
それにしてもなんとなく日本みたいだ・・・と思っていたら、やっぱりここを開発したのは日本人の野内与吉さんだそうだ。この方は1917年にペルーに移民として渡り、線路を敷設する、とか電気を付けるなど、マチュピチュの発展に尽くしたのだそうだ。その方の子孫が今もマチュピチュにいるらしい。
ここの宿で、はじめてスープが出てきて、おいしかった。時差で胃もおかしくなっているから、胃にやさしいスープはいい。
マチュピチュ遺跡ただ一つの門 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
観光3日目
ゆっくりめの朝8時10分にホテルを出発して、マチュピチュ遺跡に向かう。
マチュピチュ村は、とても小さいので、遺跡に向かうバス停までもホテルからは歩いて5分くらい。町の真ん中にあるアルマス広場にはインカ帝国皇帝のパチャクティの像がある。像の両脇にはインカの洋服のカラフルな像があって、まるで本物の人間みたいに見える。ここでひとしきりカメラ時間になる。
マチュピチュ村は標高2000mだが、これから向かうマチュピチュ遺跡は2400mの山の上にある。その遺跡に行く方法としては、専用のシャトルバスに乗るか、歩くかの2通りしかない。バスは次から次へと出ている。というか、満席になったら出発する。
バスの運転手さんは慣れたもので、日光の九十九折よりもっと曲がった道を猛スピードで走る。25分で遺跡に到着したが、その間、恐ろしくて写真を撮るどころではなかった。ほんの少しでも曲がり損ねると、崖下の川にまっさかさまに落ちていくだろう。ガードレールもないのだから。
さて、遺跡入口から少し登ると、見えました!!
下の写真の石の家は、見張り小屋。
この家は、遺跡の中でも高いところにあって、遺跡の市街地に行くには、ここから下っていくことになる。
遺跡の市街地が見下ろせる場所までやってきた。ガイドブックで見た通りの風景が広がっていた。よくみる写真の撮影ポイントは山の上に登らねばならないのかと思っていたのだったが、そうではなくて、遺跡入口からすぐのところが、その場所だったのは意外だった。
真正面の小高い山がワイナピチュ。マチュピチュは雨が多いとガイドブックに書いてあったし、昨日夜はひどく降っていたが、今日はよく晴れている。
後ろを振り返ると・・・・
ヤー混んでますねぇ。
カメラはこういうとき双眼鏡のかわりにもなってくれる。マチュピチュ市街地を見ると、結構人が入っている。それにアルパカまで見える。
真正面の山、ワイナピチュも拡大してみよう。段々畑が山のてっぺんまで続いているのが見える。山の上の畑って水やりはどうするんだろうと思うが、ここは熱帯雨林に属するところだから、そんなこと考えることもないのだろう。
観光客が山に登っているのも見える。ワイナピチュは2700m。この山に登るのは、1日あたり450名以下と規制されていて、入山料を取られる。時間があれば登りたかったのだが。
市街地の右のほう。
市街地の真ん中にある広場で草を食んでいるアルパカも望遠で。
さて、市街地に向かって、段々畑を下りていく。はるか下のほうには、ウルバンバ川が見える。川の標高は2000m、ここは2400m。足を滑らしたりしたら、400mの崖から川に転落していくだろう。
ここに子どもは住んでいたのかしら。子供の転落事故防止はどうやっていたんだろう。
ぐるぐると段々畑を回り込んで下りていく。遠くの山がみえてきた。
大分、下りてきた。
市街地の入口が見えてきた。段々畑や見張り小屋のあった、歩いてきた道は、市街地の外だ。中に入るには、ただ一つの門をくぐらなければ入れない。
マチュピチュ遺跡といえば、山のてっぺんにあるのだから登っていくものだと思っていたが、昔の人は、3400mのクスコからインカ道を、4000mの峠を越えて、マチュピチュまで下ってきたのだ。
写真左下の道に続く門がマチュピチュ市街地への門だ。市街地のまわりは深い谷と川に囲まれていて、防衛上の立地条件が良いことがわかる。クスコ方面の入口をおさえておけば町中の安全対策は大丈夫だ。
マチュピチュ遺跡の見事な石組み [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ市街地への唯一の出入り口である門は、案外小さい。
門をくぐろうとすると、真正面にワイナピチュが額縁におさまったように見える。この構図、素晴らしいですね。
ワイナピチュが神聖な山として崇められていたのだろう。
門を入って、振り返ると、山の上にさっき通ってきた見張り小屋が見える。見張り小屋は、外来者を見張るだけでなく、市街地の中も見張っていたんだろう。
岩がごろごろころがっているのは、石切り場。このように切り立った場所に大きな岩がごろごろしているのは、不思議な感じがする。遠くから持ってきたらしい。
遺跡の石の建物の中で唯一の丸い形をした太陽の神殿は、ここで一番大切な場所だったようだ。南の窓から差し込む光が冬至を告げ、東の窓からの光は夏至を告げる。
太陽の神殿の隣は、皇帝の間と呼ばれていた。マチュピチュは皇帝の別荘だったのかもしれない。
写真右側に400m下の谷底のウルバンバ川が見える。
市街地の中から外にある段々畑を見ると、素晴らしい。
市街地の中には、水がいつも流れている場所もある。マチュピチュは山のてっぺんにあると思っていると、大分、様子が違う。クスコ方面からみると山を下って、険しい熱帯雨林の先にあるのがマチュピチュなのだ。だから水もクスコ方面から流れてくるだろうし、雨も多いのだ。
石組の見事さ。ぴったりと合わさっていて、剃刀の刃も通さないといわれている。それに石の形をいかして合わせている。日本のお城の石垣もきれいだが、インカの石組には及ばないだろう。
太陽の神殿を下から見上げる。光を取り入れて冬至を知らせる窓が見える。巨大な岩の上に石を積み上げているのがわかる。
石組の芸の細かさ。
なにげなく置かれた石だが、冬至の日には、3つの窓から入った光が、置かれた石の影を作る。その影はインカの世界観を示すチャカナと呼ばれるものだとか。
500年の風雪で壊れかけた石組もある。500年もの間、人の手が入らない熱帯雨林だから壊れて当然だと思うけど。太陽の神殿などの石組が微動だにしないで残っているということは、草木の生えるすきまもないほど緻密に石が組まれているということなんだろう。
マチュピチュ遺跡について、なぜこんなところに建物を作ったのだろう、などなど諸説あるが、もうこれは一目瞭然。皇帝の別荘としか考えられませんね。
自説皇帝別荘論の根拠。
・インカの首都クスコは3400m、ここは2400m、1000mも標高差があるので、マチュピチュのほうが健康にいいということがわかる。いくとわかるが2000mと3000mの標高差は雲泥の差である。
・アンデスでは金持ちは標高の低いところに住んでいる。だから空港は高いところにあって、繁華街へは下って行く。
・クスコは乾燥しているが、マチュピチュは熱帯雨林。緑が豊富だし、熱帯雨林ではあるけれど水はけもよく高地ではあるので、それほど暑くない。
・風光明媚。都市を作るほどの平らな土地がないので別荘地が適当だ。
・建物が堅固で豪華。これほどの石を集め、石工を集めて緻密な建物を作るのは、時の権力者にしかできないことだ。
・インカ道がクスコから伸びていて、100kmの距離にある首都クスコとの密接な関係があることがわかる。
マチュピチュ遺跡の中の植物園 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ遺跡市街地の真ん中あたりに、小さな植物園がある。多分最初からなんらかの植物は植えられていたのだろう。だけど、500年前、土地の少ないマチュピチュで、食料としてではなく、観賞用の花を栽培するゆとりはあったんだろうか。このミニ植物園とは別に小さな段々畑の農業試験場もあったようで、そこではいろいろな植物の種や、栽培跡もあり、マチュピチュでの農作物育成研究をしていたらしい。高度な生活スタイルを持っていたのかもしれない。
ここは植物園というよりは、自然保護区といった趣がある。マチュピチュ遺跡付近はランの宝庫だと聞いた。標高2400mで暑くもなく寒くもなく、適度な湿気があるので、ランの生育には適しているのだろう。ランというと豪華な花を思い浮かべるが、ここに自生しているものは、花が小さく原種そのままなんだろう。
これはなんなのだろうと調べてもほとんどがわからない。これはウンヤワンヤと書いてあるブログもあったけど、それで再検索してもなにも出てこない。花の形と葉の様子からみるとランの種類のようだけど。インカ道にもたくさん生えていた。
この花は、遺跡ゲートの近くにも咲いていた。地元の花なんだ。
もしかして、ペルー国花、カントゥータの花かな。インカの聖なる花とも言われるようだ。フクシアの親戚みたいな顔をしている。
これは、ランでもないし、さっぱりわからない。
トケイソウですね、これは。スイカみたいな丸いのは、多分、トケイソウの実じゃないかな。調べてみると、ドンピシャだわ。トケイソウの原産地は南アメリカの亜熱帯地方とある。そっかぁ、インカの人たちはトケイソウを楽しんでいたんだ!
鳥も飛んでいた。遺跡の建物のあるところで鳥は見かけなかった。ミニ植物園のあたりだと、えさがあるってことね。
背中が緑の鳥。目が大きすぎ。
この花は、あちこちに咲いていた。なんだろう。遺跡のむこうは、ワイナピチュ。
マチュピチュ遺跡ひとめぐり [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ遺跡は、原則、一方通行になっているようだ。どちら方向に向かってもとがめられるわけでもなく、好きなところ、目のつくところに行ってもいいのだが、たいてい、現地ガイドさんが案内してくれるので、ほぼ一方通行は守られているようだ。
マチュピチュ遺跡内にトイレがなく、飲食禁止なので、必然的に、遺跡内滞在時間は、1回あたり、3時間程度になる。遺跡への入場チケットは5000円くらいだが、出入り自由なので、時間のある人たちは、トイレやランチで、いったん遺跡の外に出て、また戻ってくるということをやるらしい。でも私たち団体のように、1回まわってそれっきりというのが、大半ではないかしら。
さて、マチュピチュ市街地の最高地点にやってきた。インティワナと呼ばれているところだ。インカの人たちは、太陽を崇拝していたので、太陽に最も近いところ、つまり市街地の中でも高いところに「太陽をつなぎとめる石」インティワナを置いたという。インティワナは日時計として使われていたという説が有力のようだ。わながはりめぐらされていて近づけないようになっている。
現地ガイドさんによると、何年か前に日本の報道陣がきて、資材を柱にぶつけて損傷させてしまったため(折れたとか)だ、という説明だった。私もその記事を読んだ記憶がある。再度その事件を調べようとしたが、不思議なことに、みつからない。まるで報道規制でもしているようだ。
ひとつの岩盤をくりぬいて造ったものなので、損傷するということは、大変なことなんだと思うけど。
リャマは、放し飼いになっていて、ブログなどをみると、いろんなところに出没しているようだ。
で、今日は、農業試験場のあたりで草を食んでいた。
リャマは、マチュピチュの石を運んだ立役者らしい。人がいなくなった後も、ここで生き続けていたのかな。
ワイナピチュ登山口の広場では1頭のリャマが観光客に囲まれて当惑していた。
さて市街地の一番奥まで来たので、下のほうに回り込んで戻っていく。400m下の谷底のウルバンバ川が怖ろしい。
写真のポーズもいろいろあるものだ。でも気持ち、わかりますね。
2階建ての家もあったのだ。
コンドルの神殿あたり。少年が羽を広げたコンドルを真似て記念写真を撮っている。
帰り道は市街地を見上げながら。
朝来たひとたちは、いっせいにランチのために戻っていく。
帰りは、市街地の正規の入口ではなく観光客用の棚田の中の道を通る。
振り返って、遺跡の見納め。
インカの末裔みたいな人とすれちがった。先祖の遺産を見に来たのだ。
これが、遺跡の入口。ここから遺跡はまったくみえない。
この右に有料トイレがある。左にはサンクチュアリーロッジがあり、そこのレストランにもトイレがある。
サンクチュアリーロッジは、遺跡のそばのホテルとして、ここに泊まることをうたい文句にしているツアー会社もある。
私たちは、ここでランチになる。お昼なので、ほぼ満席くらいに混んでいた。
ビュッフェ方式なので、火の入ったものを選んだ。
谷底から湧き上がる蒸気 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
遺跡めぐりも終わり、サンクチュアリロッジのレストランでランチを食べると、もう本日の観光予定は終わりとなる。
ロッジの脇には、マチュピチュ遺跡のミニ植物園でみたのと同じ植物が咲いていた。ペルー国花、カントゥータかな。ちょっと違う感じもするけど。
帰りのシャトルバスが谷底のマチュピチュ村に着いたころには、雨になってきた。ウルバンバ川がすごい勢いで流れている。その上には、レストランがあるのだけど、その建物があとちょっとで流されそうな勢いだ。
その隣にある線路には電車が停まっていた。マチュピチュの駅は引き込み線で少し上のほうにあるが、線路はさらにアマゾン方向に続いている。だが、数年前の大洪水で線路が壊されてしまい、今、電車はここから少し先くらいまでしかいかないらしい。とりあえず、ドル箱のマチュピチュまでの線路が復旧すればいいということかな。
マチュピチュ村のホテルに戻ってきたのは午後2時を過ぎていた。夕食は6時からなので、少し時間がある。温泉に行った人もいる。雨は降ったり止んだり。町中をぶらぶらと見て回ることにしたが、狭い町だし、そんなに見るところところもない。で、お決まり、お土産物屋を見て回ることにした。電車の駅のそばにはアーケード式で濡れないでショッピングできるところがある。アルパカのマフラー、セーターなどがたくさん置いてあった。
雨に濡れてポインセチアが光っていた。台湾の阿里山の中腹あたりにもポインセチアがたくさん自生していたが、そういえば、気候が似ている。よく雨が降り、亜熱帯性で、気温が比較的高い。あ、ケニアのロッジでもたくさん咲いていた。やっぱりポインセチアは暖かいところの植物だ。クリスマスのために真冬の花屋に並ぶのはかわいそう。
観光4日目
マチュピチュ村で2日目の朝を迎えた。今日の午前中の予定は、マチュピチュ遺跡からクスコ方面に伸びているインカ道を歩くこと。午後は、クスコに戻る。
お天気はどうかな、と空を見上げるのだが、山がせまっている谷底なので、光があまり入ってこなくてよくわからない。昨日より1時間半も早い、6時半にはホテルを出発して、再び、マチュピチュ遺跡へ向かう。
昨日と同じく、シャトルバスに乗り込む。
ウルバンバ川にかかる橋は、車1台を通すのがやっとなので、向こうから来るシャトルバスを待たねばならない。だけど、あのバス、こんなに早い時間に遺跡から下りてきたのかしら。
バスは、昨日と同じで、猛烈なスピードで山を駆け上がっていく。2日目ともなると慣れたもので、あまり怖さを感じなくなった。山を上がるにつれ、靄が湧きあがってきて白くなる。
昨日夕方降った雨が、いっせいに水蒸気になって蒸発している。
山の上のほうは、朝日を浴びて輝いている。大自然のドラマが始まっていた。
谷底の川も今日はそれほど怖くない。それより、この神々しさはどうだろう。
水蒸気の塊は刻一刻と形を変えていく。
・・・・・と見とれていたら、遺跡入口に着いた。
サンクチュアリロッジも輝いている。ここに泊まった人たちは、昨日のお土産物屋で楽しむことはできないけど、この朝の一大イベントをたっぷりと楽しむことができるだろう。
天空に浮かぶマチュピチュ遺跡からインカ道へ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
昨日に続いて再びマチュピチュ遺跡のゲートをくぐる。でも、今日は、マチュピチュ市街地には行かない。
マチュピチュ市街地の門からクスコまで続くインカ道を、インティプンクまで歩く。インティプンクとは「太陽の門」と言われているが、つまるところマチュピチュ市街地に入る人たちの関所にあたる。
ゲートをくぐって展望のいいところまでくると、そこは一面の雲海ですごいことになっていた。
遺跡も半分くらいは雲海に包まれている。ワイナピチュも見えない。
谷底のウルバンバ川も見えない。
雲海はどんどん姿形を変えて、少しずつ天に昇っていく。雲海は、ちょうど、マチュピチュ市街地の上まで昇り、市街地が全貌をあらわす。
まるで雲の中に浮かんでいるような光景。
大自然の織り成すダイナミックな営みを、しばらく眺めていた。
さて、インカ道に入る。500年前に造られた石の道は、そのままの姿で残っている。行く手は雲海のドラマの真っ最中。
道の壁が素晴らしい石積みになっている。
もうマチュピチュ遺跡はみえなくなったが、蒸気はまだ谷底から湧き上がってきているので、目を奪われる。
段々畑がこのあたりでも造られているところがある。排水溝まで造られている。これも500年前に造られたもの。きめ細かく造られているのがわかる。その排水溝の下のほうにサンクチュアリロッジが見える。
蒸気の上昇はだいぶ落ち着いてきたようだ。谷底が見える。
インカ道もだんだん山奥らしくなっていく。標高も2500mくらいなので、息が切れる。一眼レフが重い。
だけど、木にぶらさがっているイトゴケが、太陽の光を浴びているのをみると、頭がリフレッシュされる。イトゴケは空気が清浄な高山でみるものだ。あたりの空気がすがすがしくて気持ちいい。
それに、これはペルーの国花、カントゥータではないか。
大きくしてみる。
ワイナピチュが見えてきた。マチュピチュ市街地の上の山だ。地上の蒸気はワイナピチュの上にまで昇ってきた。
どれくらい歩いただろうか。30分くらいかしら。とうとうマチュピチュ遺跡が見えるところまでやってきた。写真下のほうに小さく遺跡が見える。見張り小屋やワイナピチュ登山口あたりが見えている。
記念に拡大しておこう。
インカ道を歩く ------ワイナピチュの頂上まで蒸気が昇った------ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インカ道は尾根伝いにクスコまで続いている。それどころか、かつてのインカ帝国の支配下にあった地域に4万キロの長さの道があるという。石が敷かれていて歩きやすくなっている。
木が生い茂っていて、傍らには花が咲いている。お花畑という感じではなく、ひっそりと500年間咲き続けているという趣がある。花のほとんどは残念ながら名前がわからない。
これは顔がマメ科だわ、品がいい。
ときどき視界が開けたところに出ると、マチュピチュ遺跡が見える。蒸気がもうワイナピチュの頂上付近まで昇っている。写真左隅にみえるのがマチュピチュ遺跡。見張り小屋はとんがった建物で遺跡の端にあるからすぐにわかる。見張り小屋がその名の通り、遠くまで見張れる位置にあることがわかる。
谷底まで見えてきた。
竹のような草。ひげが節々に生えている。
これはベゴニアの親戚ですね。シュウカイドウかな。我が家の庭先にも咲く。
マチュピチュ遺跡がよく見えてきたので、少し拡大してみてみる。歩いてきたインカ道が左に伸びているのがわかる。写真右下に青緑のサンクチュアリロッジの屋根が見える。
これは日本でもよくみる花のようだけど。
あら、ルピナスもアンデスに咲くのねぇ。
オレオカリス・グランディフローラ (ヤマモガシ科)
ヤマモガシ科なんてはじめて聞きました。
花びらがとがっていて特徴があるから名前もすぐにわかりそうなものだけど・・・。
ついにワイナピチュのてっぺんまで見えるようになった。雲海がワイナピチュの上まで昇った。ワイナピチュはマチュピチュ市街地から見ると細くとがって見えるが、ここから見ると、横にひろがっている。あのワイナピチュをぐるりとウルバンバ川が回り込んでいて、自然の要塞になっているのだ。
シャトルバスの走るジグザグの道もはっきりと見えてきた。マチュピチュ遺跡は左の尾根の上に、緑がえぐれて白っぽくみえるところだ。
ワイナピチュの頂上付近を拡大で撮っておこう。頂上に何人かの人がいるのがゴマ粒のように見える。段々畑にも人がいっぱいいる。あの人たちも、蒸気の昇る大自然のドラマをみたのだろうか。それとも蒸気の中にいたはずだから、まわりはなにも見えなかったのだろうか。
昨日の雨のしずくをまだ残している花。
葉っぱがぎざぎざの黄色い花。Cassia Hookeriana マメ科 みたいだけど、日本ではなんて読むのかな。
ランの新種発見、とでも言いたくなるような変わったラン。
こちらも同じくラン科のエビデンドラムの一種らしい。マチュピチュ市街地のミニ植物園にも咲いていた。
インカ道を歩く ----インティプンク、太陽の門---- [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
木や草の間から時折姿をあらわすマチュピチュ遺跡は少しずつ形を変えていく。地図をみると、尾根伝いに太陽の門まで、遺跡の真正面に回り込んでいくようになっている。
谷底のウルバンバ川もはっきりと見えるようになった。崖にはみ出している花は、近くで撮ることができない。
遺跡を背景に・・・・・うーーーん、イマイチ。
Epidendrum Secundum (エピデンドルム セカンダム)ラン科
エビデンドラムのオレンジ系は遺跡のミニ植物園でもみたが、ピンク系もある。
これはナンダロー。
これはほとんど花期が終わっていると思うが、元の姿を想像して。
もうこのころになると、息切れが激しくて、もうダメダ~。
と思ったら、最終目的地の太陽の門、インプティンクだった。さすがにインカ帝国皇帝の別荘の関所だ。立派。
ここからみるマチュピチュ遺跡はすばらしい。
写真左の道が今、歩いてきたインカ道、ジグザグに見えるのが谷底のマチュピチュ村からのシャトルバスの走る道路。
記念に遺跡の拡大写真を。
左下に緑色の屋根のサンクチュアリロッジ。
インカ道は、さらにクスコに向かって伸びている。が進入禁止マークがある。遺跡の入場チケットで行けるのはここまで。
上の写真のインカ道は、ここ太陽の門で大きく90度に曲がっている。右側が山、左側が谷、という位置関係は変わらないが、山のまわりを、ここでぐるりと回ることになるので遺跡は見えなくなる。写真右側の山のさらに右方向が遺跡になる。
クスコから歩いてきた旅人は、ここ太陽の門で、はじめてマチュピチュ市街地を目にすることになる。
インティプンク、太陽の門の標識には、2720mと書いてある。ここはワイナピチュと同じ高さだ。遺跡が2400mだから300m、登ってきたことになる。息が切れるはず。
Bomarea albimontana(ボマレア アルビモンタナ) ユリズイセン科
現地名 シュル・シュル(Shullu shullu)または Campanita(Little bell)
上の標識の脇に咲いていた花。
インカ道を歩く -----光るちょうちょオーロラモルフォチョウがいた ----- [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インティプンクからの記念写真。左からマチュピチュ遺跡、その下にサンクチュアリロッジ、シャトルバスの入るじぐざぐの道路、ワイナピチュ(山)、ウルバンバ川。ここインティプンクを含めてマチュピチュ遺跡のすべて。
ウルバンバ川はワイナピチュをぐるりとひとまわりしているが、その隣の山もぐるりと回り込んでいる。
下の写真の左がワイナピチュ、ウルバンバ川の右側はマチュピチュ村へ続く。線路と道路が見える。ウルバンバ川の真ん中が草むらでみえなくなっているが、そこに橋があって、シャトルバスは、向こう岸からその端を渡って、こちら側のじぐざぐ道路を登ってくる。
インティプンクの石垣のまわりは日本でもよくみるフーロが咲いていた。
ピンクのラン科の花、エビデンドラムも鮮やかに咲いている。
インティプンクからは、また同じ道を引き返す。300mの下りになるので、みんな速いこと、カメラ遊びなどしていると置いて行かれそうになる。
めずらしくブルー系の花。
タンボと呼ばれる宿泊施設跡まで下ってきた。行商人たちなどは、マチュピチュの市街地には入れてくれないので、ここに泊まったらしい。
ここで突然、騒ぎが巻き起こった。素晴らしい虹色のチョウチョがひらひらと飛んでいて、遺跡どころではなく、みんなカメラで追いかける。下の写真のど真ん中の白いのがチョウチョ。
調べてみるとオーロラモルフォチョウに近かった。ボリビアやペルーに生息すると書いてあるからドンピシャだ!!!
開長85mmという大きさもそのとおり。ピンク系やブルー系など少し色のニュアンスが異なるのもあるようだが、これはどうもピンク系。羽が動くのにあわせて虹のようにきらきら光っている。真珠色に輝いたかと思うと、アクアマリンの淡いブルーもある。ピンク系のダイヤモンドのような光も放っている。
あ~~ぁ、飛んで行ってしまった~。こんなにきれいなちょうちょ、初めて見た。こういうときとっさにシャッター優先にして撮るほどにはカメラを使いこなしていないことを反省する。
帰りは下りなので、息切れしないで歩ける。
マチュピチュの見張り小屋が見えてきた。往復4kmもないと思うが、登りで1時間以上かかり、インティプンクでも30分ほど休憩したりしていたから、3時間近くもかけたのんびりミニハイキングだった。
シャトルバスのバス停までさらに下りていく。
遺跡の中に咲いていた花。遺跡は石でできているし、土があっても芝以外は手入れされているので、花はめずらしかった。
シャトルバスの窓から撮った写真。ウルバンバ川と、橋と電車も見える。
マチュピチュ村に入ると子どもが遊んでいた。これもバスから。
さて、お昼は自分たちで勝手に食べることになっている。午後の電車の時間まで1時間あまり。結局朝のホテルのパンの残りをベンチに座って食べた。同じことを考える人が何人もいたのはおかしかった。
この線路、さっきまで電車が走っていたところじゃぁないの。この線路はマチュピチュ駅の引き込み線とは別のアマゾンに向かう線路なのだが、大洪水であまり使われなくなったみたい。それでも電車は走っているのだから危ない。
マチュピチュ村の駅は川の右側で、アーケードになっているところにお土産屋がびっしりと入っている。左側にもホテルやお土産屋やレストランが並んでいて、日本の温泉街そっくりだ。
この川は、ウルバンバ川の支流になり、合流地点のすぐ手前で撮っている。
ちょうど電車が走ってきたところが、川の合流地点。線路は2つの川の合流地点という危険なところを走っている。ちょっとした雨で水没しそうだと思って、調べてみると、やっぱり洪水が多い地点のようだ。マチュピチュの引き込み線を高いところに作ったのは正解なんだ。
100年間列車を運んでいる線路 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)をお昼過ぎに出発するビスタドームに乗り、オリャンタイタンボまで戻る。帰りは、川側の席が取れた。午前中のインティプンクまでのミニハイキングでくたびれてはいるが、せっかくの川側の座席だ、窓からの景色を楽しもう。
山側は、目の前の山肌しか見えないのだが、川側は、展望が開けている。
電車が動き始めてすぐに目につくのが、段々畑だ。山の上の遺跡にあったのと同じつくりだ。使われていないと見えて、半ば土に埋もれている部分もある。
マチュピチュを1911年に発見した考古学者のハイラム・ビンガムは、この段々畑に興味を持った。オリャンタイタンボからウルバンバ川を下ってくるとき、この段々畑が続いているのをみて、きっと遺跡があるに違いないと思ったそうだ。というのも段々畑はインカの文化だったからだ。土地の少年が、使っていない段々畑は上のほうにもある、というので、上まで登っていったところにマチュピチュ遺跡が眠っていた、というわけだ。
電車は単線なので、対向列車待ちがある。
対向列車が通り過ぎると、そろそろと電車が動き始める。川の流れが線路のすぐ近くにある。これでは洪水が少しでもあると浸水してしまいますねぇ。
どうしてこんなに危険な川のそばに線路を作ったのか、と不思議に思う。それにマチュピチュ村までの交通機関は、電車しかないのだ。
ペルーに汽車が走ったのは、1851年で南米で初だ。ちなみに、日本で初めて汽車が走ったのは、1872年、新橋、横浜の間。ペルーでは日本よりも20年も早い時期に線路が敷設されたのだ。
クスコからマチュピチュを通って、さらに奥のキャバンバまでの鉄道敷設がペルーの国会で承認を得たのは、1905年、建設は1907年である。なんと、ハイラム・ビンガムがマチュピチュを発見する1911年より5年以上も前に鉄道が建設されはじめたのだ。鉄道の終着駅であるキャバンバまでの線路が完成したのは1928年。
マチュピチュを通る鉄道は、アマゾンのジャングルの中にあるキャバンバで採れるカカオやコーヒーをペルーの海岸まで輸送し、さらに海外へ輸出するための鉄道だったのだ。
今では、マチュピチュからキャバンバまでの20kmほどは、1997年の洪水による崖崩れで廃線になっているとのこと。私が、マチュピチュの大洪水で旅行取りやめになったのは、3,4年前のこと。つまり、この鉄道は、常に洪水の危険にさらされているということではないか。
線路が使えなくなったキャバンバのカカオやコーヒーは、今では迂回路を車で運ばれているらしい。今となっては、線路を作りなおすより道路を新しく切り開くほうが国全体のコストパフォーマンスがいいということだろう。
ではマチュピチュへの交通機関は、今後道路に代わっていくのだろうか。そういうはなしは聞こえてこないところをみると、電車で行くマチュピチュということ自体に付加価値ができてしまっているし、観光客を運ぶくらいでは道路建設のメリットが少ないということなんだろうと思う。観光客を大量に運べたとしても、マチュピチュ遺跡自体が悲鳴をあげることになるだろう。そうでなくてもシャトルバスである程度の人数制限を行っているのだから。
100年間、走り続けている列車。何度も洪水被害を受けながら頑張っている鉄路。スゴイネェ。
窓の外に気を取られている間に、車内ではいつのまにか、音楽に合わせて、鬼の仮面をかぶった派手派手ピエロが踊りまくっていた。そのうちお客さんまで連れ出して踊っている。
どんちゃか騒ぎに続いてアルパカのファッションショーが始まった。モデルのお兄さんは、多分、さっき軽食を配っていた人だ、ちょっとかっこいい。
女性のモデルも出てきて、何着か、披露していた。土産物屋でみるアルパカのセーター類よりは、はるかに洗練されているのがわかる。
だけど、せっかくの川側の席なので、外もみていたい。川沿いに、段々畑がオリャンタイタンボまで続いているのだった。ハイラム・ビンガムさんは、これをたどっていったのね。
トンネル技術もまだなかったころの鉄道敷設なので、川に沿ってくねくねと曲がった路線だ。マチュピチュ村からオリャンタイタンボまで800mの標高差を登っていくにつれ、熱帯雨林のジャングルは消え、乾燥気味の山が見えてくる。
河原にすすき!!
オリャンタイタンボが近づいた。ここで電車を降りて、バスに乗る。クスコまではバスでショートカット。
往きに見たのと同じ風景がひろがっていて、なんだかなつかしい。
オリャンタイタンボの山々。
バスが峠にさしかかると、オリャンタイタンボの町が広がる。遠くに雪を被ったアンデスの山が見える。
ここで標高2800mのオリャンタイタンボとはお別れ。ここから標高3400mのクスコまで、バスでさらに標高差600mを登っていく。
オリャンタイタンボからクスコまでは、豊かな田園風景が広がる。3日前に来た道を戻っている。来るときは、朝だったけど、今は夕方。
あら、ソラマメの花だわ。実を塩ゆでしたのが大好物なので、我が家の猫の額の畑で作ろうとしたが、うまくできなかったことを思い出した。
同じ風景を往きでも見たが、午後の光のほうが、色が濃くなる。
ジャガイモの花が満開だ。スーパーではみたこともない種類のジャガイモが売られていた。10種類くらいあったかしら。
標高からすると、このあたりが最も農作物に適しているのだろう。