マチュピチュとウユニ塩湖旅行記のはじめに [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
新しいブログ設定がようやくできたところで、ペルーとボリビアの旅行を記録しよう。
ボリビアの首都ラパスでは、4000mを超える標高の初体験となった。
マチュピチュのインカ遺跡や見渡す限り塩でできたウユニ塩湖は、素晴らしい絶景だった。
マチュピチュは以前、行く予定になっていたが、大洪水のために道路や鉄道が破壊され、旅行をキャンセルせざるをえなかった。今回はそのリベンジ。
下の写真はウユニ塩湖。
不思議な光景がどこまでも続いている。
下も同じくウユニ塩湖。
車上のお兄さんは、夕焼けの日の入りを眺めるために待っている。
それがそっくり湖面に映っているのがおもしろい。
こういう写真が山ほどたまってしまっている。
整理がてら、旅行を再現して楽しむこととしよう。
ペルーの首都リマからナスカへ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
第一日目
南米に行くには、どうしてもアメリカを経由しなければならない。今回は、アトランタ経由でペルーに入る。
夕方、成田を出発して、その日の午後、アトランタに到着する。あいにく窓側の席がとれなくて、通路側の席で、ペルーのにわか勉強をした。窓側だとデンバーあたりの雪山が見えたはず、残念。
アトランタでは、トランジットにもかかわらず、例によって厳しい入国審査に時間を取られた。靴を脱いで、丸い透明なボックスの中でバンザイの姿勢で写真を撮られる。
その後、ペルー行の飛行機でペルーの首都、リマに飛んだ。
リマに到着したのは、翌日の午前1時、つまり真夜中。
リマでの入国審査の後、バスで20分ほどのシェラトンホテルに到着したのが、午前3時。
南米に来るには、このめちゃくちゃな時間帯に耐える体力が必要だ。
そしてホテルに到着して、4時間後の午前6時半には、観光開始だ。
本日の予定は、ナスカの地上絵をセスナから見る。そのためにナスカまで行かねばならない。
リマからバスで4時間弱で、ピスコ空港まで行き、そこからセスナでナスカまで飛んでいく。
ホテルの前には由緒ありそうな建物が並んでいるから、リマの心臓部にいるらしいことはわかるが、朝の6時なので、まだ町は眠っている。
ホテルの左側を見ると、これもなんだかすごい建物だ。
リマの観光は後回しで、バスはナスカ方向に向かって高速道路を飛ばし始める。
リマはバスが重要な輸送手段になっている。大きな道路には、バス専用の路線があり、ノンストップで駅から駅まで走るので、日本の電車並みに、正確な運行がなされているそうだ。
立体交差の上からバスの路線を見下ろすと、道路の真ん中にバスの駅がある。黄色い線で仕切られているのが、バス路線だ。
バスはどんよりとした空の下を南へと走る。
実は今、海岸のすぐそばを走っていて、いつも霧が発生して、もやっとしているとのこと。
リマの町中を抜けたと思ったら、すぐに砂漠地帯になった。
こういうところで生活できるのかしらん、と思うのだが、アンデスの雪解け水が流れてくるので、雨はほとんど降らないが、生活はできるらしい。
ちょっときれいな道路が走っているところには、海辺に別荘があるそうだ。
今、バスはパンアメリカンハイウェイを南に走っている。このハイウェイを走る車は、必ず整備状況のチェックをうけなければならないそうだ。その場所で、お兄さんが愛想を振りまいてくれた。南米の人たちは陽気だ。
太平洋が見えてきた。この海の向こうが日本だ。
海辺の家は金持ちの別荘だとか。
海辺に人がいるけど、遊んでいるんだろうか。
このあたりも別荘だとか。
ここも別荘。壁であたり一帯を囲んでいて、ガードマンもいるそうだ。
ちょっと高級な別荘。向こうは海。
さらにもっと高級な別荘地にはプールまで見える。リマのお金持ちがくるそうだ。
別荘地帯を抜けると、漁船が見えてきた。働く人も見える。
船の胴体にピスコと書いてある。バスは行先地のピスコまできたらしい。
ピスコの港だ。おびただしい漁船が停泊している。沖合には大型の船も見える。日本にもここでとれた魚が来るんだろう。
ナスカの地上絵 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
ピスコから小型のプロペラ機に乗って、ナスカまでを往復する。
飛行機の席はくじ引きで決めた。12人乗りで、12番が当たった。つまり最後部席だ。2列の座席でどの席も窓から外がよく見える。
しかし、後で、わかったことだが、この席は最悪だった。小型だからゆれるのだが、後部席はもっとも揺れが激しいのだ。
飛行機が飛び立つと、すぐに海が見える。だが、薄い霧がかかっていて、ぼんやりしている。砂漠地帯だから雨が降るということはないだろうけれど、いつも曇っているように感じる。
飛行機は海沿いに南下していく。砂漠地帯に川が流れているところだけが、植物が生えていて緑になっているのがよくわかる。この川はアンデスの雪解け水だ。水が干上がって流れの跡だけが残っているところもある。
川が見える。
ナスカの上空に来たらしい。パイロットが英語で説明しながら、窓からよく見えるように、機体を傾ける。反対側の人たちにもサービスするために、今度は大きく、ぐるりとまわって戻ってくると、反対側に機体を傾ける。なにか見えてきた。
だが、このあたりから、飛行機酔いが始まってしまった。ブーンと飛行機が旋回するたびに、吐き気を催し、目もあけていられない。
ファインダーを見ないで、シャッターを押す。
道路と車と、地上のミラドール(展望台)が見える。そのそばには、クモやサルみたいな絵が見える。
あまりの気分の悪さに、カメラをやめて、ぼんやりとしていた。
平野から少し山のほうに向かった。草木がまったくみえなくて、黒い岩が横たわっている。
砂漠と黒い岩。
なんだって、こんなところに絵を描いたんだろう。
パイロットが山肌になにかがあると叫んでいる。
お、宇宙人だ。山肌なので、機体を傾けなくともみることができた。
どうやら、地上絵の見物は終わったらしい。飛行機はまた水平飛行に入り、少し気分が回復した。
ここから30分ほどで、またピスコへ戻った。
ピスコの海岸べりのレストランに入ったのだけど、飛行機酔いが残っていて、食事がのどを通らなかった。
レストランの前の海は、気分を落ち着かせてくれる。
ツアーの人たちの中で、一番飛行機酔いがひどかったらしい。
やっぱり、最後尾の席がよくなかったのだ。
それと、カメラ。ファインダーからのぞいて、1点をじっとみているとよくない。
ナスカの地上絵の写真は、専門家にまかせるべし。
クスコを素通り [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
朝の3時にリマのシェラトンホテルに到着して朝6時半にはホテル出発、ピスコからナスカまで地上絵を見るために飛行機で揺られて、夕方の19時過ぎに、またシェラトンホテルに戻ってきた。ピスコからのバスでは、飛行機酔いのためにぐったりとしてしまい、1枚も写真を撮っていなかった。
夜8時の夕食も、時差ぼけと飛行機酔いで、食欲がわかない。
ビュッフェ方式でぐるぐると見て回ったら、お寿司みたいなのがあった。海苔でごはんを巻くのは、ついに世界的に認められるようになったらしい。
ピスコサワーというのが、ウェルカムドリンクで出された。下の写真の白い飲み物。ピスコとは、ナスカへ行く飛行機に乗ったところの地名だが、そこで作られる飲み物なので、ピスコサワーと呼ばれている。ぶどうの蒸留酒にレモン、卵白、シロップなどをまぜてあるとのこと。結構アルコール度数が高くてきついのだが、柑橘系のさわやかさとシロップの甘さで、どんどん飲めてしまう。
ピスコサワーのおかげでぐっすり眠れた。成田を出発してから3日ぶりくらいになるのかしら、お風呂に入ってベッドで横たわったのは。
観光2日目。
いよいよマチュピチュに向けて出発だ。
リマの空港から、飛行機でクスコまで行き、そこからバスでオリャンタイタンボまで行き、さらに展望列車に乗り換えて、マチュピチュの麓まで行く。なんとも大変なことだ。
リマの朝は、やっぱりどんよりとしているが、仕事に出かける人たちであふれかえっていた。バスが重要な交通手段になっていて、きめ細かく行先が決められているらしい。
リマからクスコへは、1時間のフライトなのだが、それが、お客が少ないからということで、乗る予定の便が飛ばなくなってしまった。次の便は、1時間後だ。なんだかんだで、9時出発予定が、11時半出発になってしまった。
以前、パタゴニアに行ったときも、やはり国内便が遅れに遅れてしまったのだったが、どうも、南米の国内便は、遅れることが当たり前らしい。
ようやく出発した飛行機は、窓際席ではなかった。予定していた飛行機の座席番号は、窓際だったのに、欠便になったために、座席はごちゃまぜにされたのだ。
クスコの標高は3400m。飛行機でいきなり高地に来た。
海沿いのどんよりしたリマと違って抜けるような青空が見える。
空港から出て青空の下にくると、いっぺんにご機嫌になるから、やっぱりお日様は偉大だ。
だけど、飛行機と民家が隣り合わせでスリル満点の飛行場だ。3000mの高地だと住むところも飛行場にするスペースも厳しいのかもしれない。家がぎっしりつまっている。
インカ帝国の皇帝パチャクティの像がそびえていて、かつてのスペイン領も、今はインカの末裔の人たちの国になっていることを示している。15世紀にパチャクティは、クスコを中心としてインカ帝国をつくりあげた。その後インカ帝国はスペインに滅ぼされたが、今でもパチャクティは、クスコに君臨している。
飛行機が遅れなければ、クスコの遺跡めぐりが行程にはいっていたのだけど、なくなってしまって、バスで通り過ぎるだけ。それでも市内の風景は、日本とは違った表情を見せていて、なかなかおもしろい。
あら、KARAOKEって看板が・・・カラオケも世界的ですねぇ。
このおばさま、肩の荷物がインカ風。
街角で、行商のおばさまの帽子もなんとなくインカ風。街灯の緑の柱がとっても立派。これはスペイン領時代のものですね。
なんとなくスペイン風の町。
インカのおばさまと、旅行者。
バケツリレーで崖の石積み。すごい風景ですね。
あちこちで工事が行われている。人海戦術でやるらしい。坂の町は大変だ。
ここのおばさまもインカそのもの。
インカのおばさまと犬と。
クスコからマチュピチュへ、豊かな田園風景 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インカ帝国の首都だったクスコはアンデス高原の高いところ、標高3400mにある。これから向かうマチュピチュ村の標高は2000m。1400mもこれから下っていくことになる。
ペルーの首都、リマは海岸沿いにあるが、ナスカの砂漠地帯と同じように雨の少ないところだった。そしてクスコを抜けると、アンデス山脈をはさんで、海とは反対側の内陸部になっていく。そして気候は、マチュピチュが近づくにつれ、熱帯雨林のしげる地域へと変化していく。マチュピチュは、もうアマゾンに流れる支流を持つ地域になるのだ。
バスはクスコを抜けると緑の豊かな農村地帯に入る。
下り坂で、細いながらもよく整備された観光用の道路なので、猛烈なスピードで駆け下りていく。
お葬式でもあったような雰囲気。
野菜が植えられている。ほとんどはじゃがいものよう。
ちょっとした町を通り抜ける。
世界中からマチュピチュへ集まってくる人たちは、クスコからこの道路を通って電車の便のいいオリャンタイタンボまでいくか、あるいはクスコからその電車に乗るかのどちらかになる。クスコからの電車は本数が少ないので、ほとんどの観光客は私たちのように、この道路をバスで行くことになる。
だから、途中にもしゃれたホテルやレストランがところどころに見えるのだ。
なんだか落ち着く風景。
ヨーロッパを走っているようだ。
ちょうど夏。菜の花やじゃがいもの紫の花が畑一面に咲いている。日本にもペルーから農産物を輸入しているけど、こういうところで作られているのね。
トイレ休憩のところには、しっかりと露店のみやげもの屋がある。
旅行も始まったばかりで、商品がものめずらしいものの、あんまり買う気がおこらない。アルパカのマフラーや手袋が並んでいる。
トイレの屋上にかわいい服の子供たちがいたが、写真をとるとお金を請求されるらしい。下の町からわざわざ景色のいい観光客用の休憩施設まで上がってきたのだ。
休憩所から見える田園風景は豊かに見えるけど、畑の区画が、狭いようだ。大規模農業はやってないのかな。
バスは再び猛スピードで疾走する。素晴らしい景色が飛んでいく。
平らな水田のような畑にはしないで、斜面そのままを使っている。日本だと棚田にするだろう。
結構、民家が続く。
バスはこういう景色に目もくれないでいちもくさんに下って行く。
と思ったら、峠道にさしかかったらしい。雪山が見える。
ペルーの景色の多様さは世界でもめずらしいのではないかしら。
サボテンも見える。サボテンとアンデスの雪山と菜の花と、おもしろい取り合わせ。
マチュピチュ村までの電車 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
バスが峠を越えると、町が見えてきた。オリャンタイタンボだ。
ここから電車に乗る。
バスでマチュピチュ村に入ることはできないのだ。
ウルバンバ川まで降りてきた。この川はアマゾン川の支流だ。
蛙そっくりの山。有名な山らしい。
バスは、電車の駅をめざして村の中を走る。
家族でなにか農作業をしている。種でも採ってるのかな。
この子供たちはきっと、モデルだろう。観光客相手にポーズをとってお小遣いをかせいでいるんじゃないかな。
ようやくバスは、オリャンタイタンボの駅に到着した。
オリャンタイタンボとは、妙な名前だが、昔、オリャンタイさんという人が、ここで旅人のために宿を提供していて、タンボとは宿のことなんだそうな。つまり、新宿とか原宿といった感じかな。
電車では荷物制限があって5Kgまでしか持ち込めない。だからスーツケースはマチュピチュには持っていけない。スーツケースは、クスコのどこかに置いてあるはず。マチュピチュで2泊したら、またクスコに戻っていくのだ。とはいっても、電車に乗るときに、荷物のチェックがあるわけでもないのだが。
なので、2泊3日分の荷物を小型ボストンバッグに入れて電車に乗り込む。これが結構面倒だ。マチュピチュが暑いのか寒いのか、わからないので、結局、荷物が増えてしまう。
駐車場から駅までの短い道路はびっしりと土産物屋が並んでいる。写真右側がお店。
電車がみえてきた。プラットホームも電車のレールも同じ平面にある。
マチュピチュまでの電車は3種類ある。
ハイラム・ビンガムはヨーロッパのオリエントエクスプレスそっくりだ。停車しているのをちらっと見たのだが、各テーブルごとにおしゃれなスタンドがついている。それもそのはず、会社が同じなんだって。往きはランチ、帰りはディナーつきという高級列車だ。ハイラム・ビンガムという名前はマチュピチュ遺跡を1911年に発見した考古学者の名前だ。
ビスタドームは普通の観光客向け車両で、私たちはこれに乗った。
もうひとつは、バックパッカーと呼ばれて、なにもサービスがつかないらしい。
ビスタドームは、天井まで窓がついてあって視界が広くなるようになっている。通路をはさんで2列ずつ。テーブルがついていて、ちょっとしたおやつが出る。
おやつは、菓子パン2個とドリンクだった。
ドリンクは選べるようになっていて、コカ茶を飲んだ。コカ茶はティーバッグになっていて、記念に紙袋も写した。
このコカ茶、日本への持ち込みは禁止されている。薬物になるらしい。アンデスのような高地では、コカ茶が高山病にいい、と言われているので、いつもコカ茶を飲むようにした。なかなかおいしい。
電車に乗ったオリャンタイタンボは標高2800m。そこから電車はウルバンバ川に沿って、標高2000mのマチュピチュ村まで下っていく。往きは、左側が渓谷、右側が山、それも崖になっているので、土しかみえない。往きは左側に座るべきだが、座席指定になっていて、あいにく山側だったので、カメラはやめた。
電車は川の流れのすぐそばを走っているところもあり、これだったら洪水にでもなったらひとたまりもない。
何年か前にマチュピチュへ行く予定になっていたのが、大洪水で線路が破壊されて、直前で中止になったことがあった。そのときは、川を渡る橋でも流されたのかと思ったのだったが、線路は川ぞいにマチュピチュ村まで続いているのだ。
さて、クスコからマチュピチュ村までは、およそ100kmの道のりだ。半分はバス。半分は電車。バスは速いが、電車は、単線なので、途中の待ち時間が長い。何度も反対側の電車待ちで待たされた。もともと観光客用の電車なので、のんびりと走る。クスコからマチュピチュ村まで電車だと4時間もかかる。この半分をバスにすることで、時間を短縮できるのだ。
結局、マチュピチュ村に着いたのは、夕方の5時過ぎ。朝7時過ぎにリマを出発してクスコまで飛行機、そこからバスと電車でようやく、マチュピチュ遺跡のふもとにあるマチュピチュ村に着いた。やっぱり遠い。
この写真、日本の温泉郷みたいだけど、ここがマチュピチュ村。アグアスカリエンテスというのが元の名前で、温泉が湧くという意味だそうだ。この川の奥に温泉プールがあるので、ツアー仲間の何人かは、入りに行った。ぬるいお湯で、水着を着てはいるのだそうだ。泳ぐわけでもないし、温泉としてくつろぐのでもないし、ちょっと中途半端な感じ。
それにしてもなんとなく日本みたいだ・・・と思っていたら、やっぱりここを開発したのは日本人の野内与吉さんだそうだ。この方は1917年にペルーに移民として渡り、線路を敷設する、とか電気を付けるなど、マチュピチュの発展に尽くしたのだそうだ。その方の子孫が今もマチュピチュにいるらしい。
ここの宿で、はじめてスープが出てきて、おいしかった。時差で胃もおかしくなっているから、胃にやさしいスープはいい。
マチュピチュ遺跡ただ一つの門 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
観光3日目
ゆっくりめの朝8時10分にホテルを出発して、マチュピチュ遺跡に向かう。
マチュピチュ村は、とても小さいので、遺跡に向かうバス停までもホテルからは歩いて5分くらい。町の真ん中にあるアルマス広場にはインカ帝国皇帝のパチャクティの像がある。像の両脇にはインカの洋服のカラフルな像があって、まるで本物の人間みたいに見える。ここでひとしきりカメラ時間になる。
マチュピチュ村は標高2000mだが、これから向かうマチュピチュ遺跡は2400mの山の上にある。その遺跡に行く方法としては、専用のシャトルバスに乗るか、歩くかの2通りしかない。バスは次から次へと出ている。というか、満席になったら出発する。
バスの運転手さんは慣れたもので、日光の九十九折よりもっと曲がった道を猛スピードで走る。25分で遺跡に到着したが、その間、恐ろしくて写真を撮るどころではなかった。ほんの少しでも曲がり損ねると、崖下の川にまっさかさまに落ちていくだろう。ガードレールもないのだから。
さて、遺跡入口から少し登ると、見えました!!
下の写真の石の家は、見張り小屋。
この家は、遺跡の中でも高いところにあって、遺跡の市街地に行くには、ここから下っていくことになる。
遺跡の市街地が見下ろせる場所までやってきた。ガイドブックで見た通りの風景が広がっていた。よくみる写真の撮影ポイントは山の上に登らねばならないのかと思っていたのだったが、そうではなくて、遺跡入口からすぐのところが、その場所だったのは意外だった。
真正面の小高い山がワイナピチュ。マチュピチュは雨が多いとガイドブックに書いてあったし、昨日夜はひどく降っていたが、今日はよく晴れている。
後ろを振り返ると・・・・
ヤー混んでますねぇ。
カメラはこういうとき双眼鏡のかわりにもなってくれる。マチュピチュ市街地を見ると、結構人が入っている。それにアルパカまで見える。
真正面の山、ワイナピチュも拡大してみよう。段々畑が山のてっぺんまで続いているのが見える。山の上の畑って水やりはどうするんだろうと思うが、ここは熱帯雨林に属するところだから、そんなこと考えることもないのだろう。
観光客が山に登っているのも見える。ワイナピチュは2700m。この山に登るのは、1日あたり450名以下と規制されていて、入山料を取られる。時間があれば登りたかったのだが。
市街地の右のほう。
市街地の真ん中にある広場で草を食んでいるアルパカも望遠で。
さて、市街地に向かって、段々畑を下りていく。はるか下のほうには、ウルバンバ川が見える。川の標高は2000m、ここは2400m。足を滑らしたりしたら、400mの崖から川に転落していくだろう。
ここに子どもは住んでいたのかしら。子供の転落事故防止はどうやっていたんだろう。
ぐるぐると段々畑を回り込んで下りていく。遠くの山がみえてきた。
大分、下りてきた。
市街地の入口が見えてきた。段々畑や見張り小屋のあった、歩いてきた道は、市街地の外だ。中に入るには、ただ一つの門をくぐらなければ入れない。
マチュピチュ遺跡といえば、山のてっぺんにあるのだから登っていくものだと思っていたが、昔の人は、3400mのクスコからインカ道を、4000mの峠を越えて、マチュピチュまで下ってきたのだ。
写真左下の道に続く門がマチュピチュ市街地への門だ。市街地のまわりは深い谷と川に囲まれていて、防衛上の立地条件が良いことがわかる。クスコ方面の入口をおさえておけば町中の安全対策は大丈夫だ。
マチュピチュ遺跡の見事な石組み [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ市街地への唯一の出入り口である門は、案外小さい。
門をくぐろうとすると、真正面にワイナピチュが額縁におさまったように見える。この構図、素晴らしいですね。
ワイナピチュが神聖な山として崇められていたのだろう。
門を入って、振り返ると、山の上にさっき通ってきた見張り小屋が見える。見張り小屋は、外来者を見張るだけでなく、市街地の中も見張っていたんだろう。
岩がごろごろころがっているのは、石切り場。このように切り立った場所に大きな岩がごろごろしているのは、不思議な感じがする。遠くから持ってきたらしい。
遺跡の石の建物の中で唯一の丸い形をした太陽の神殿は、ここで一番大切な場所だったようだ。南の窓から差し込む光が冬至を告げ、東の窓からの光は夏至を告げる。
太陽の神殿の隣は、皇帝の間と呼ばれていた。マチュピチュは皇帝の別荘だったのかもしれない。
写真右側に400m下の谷底のウルバンバ川が見える。
市街地の中から外にある段々畑を見ると、素晴らしい。
市街地の中には、水がいつも流れている場所もある。マチュピチュは山のてっぺんにあると思っていると、大分、様子が違う。クスコ方面からみると山を下って、険しい熱帯雨林の先にあるのがマチュピチュなのだ。だから水もクスコ方面から流れてくるだろうし、雨も多いのだ。
石組の見事さ。ぴったりと合わさっていて、剃刀の刃も通さないといわれている。それに石の形をいかして合わせている。日本のお城の石垣もきれいだが、インカの石組には及ばないだろう。
太陽の神殿を下から見上げる。光を取り入れて冬至を知らせる窓が見える。巨大な岩の上に石を積み上げているのがわかる。
石組の芸の細かさ。
なにげなく置かれた石だが、冬至の日には、3つの窓から入った光が、置かれた石の影を作る。その影はインカの世界観を示すチャカナと呼ばれるものだとか。
500年の風雪で壊れかけた石組もある。500年もの間、人の手が入らない熱帯雨林だから壊れて当然だと思うけど。太陽の神殿などの石組が微動だにしないで残っているということは、草木の生えるすきまもないほど緻密に石が組まれているということなんだろう。
マチュピチュ遺跡について、なぜこんなところに建物を作ったのだろう、などなど諸説あるが、もうこれは一目瞭然。皇帝の別荘としか考えられませんね。
自説皇帝別荘論の根拠。
・インカの首都クスコは3400m、ここは2400m、1000mも標高差があるので、マチュピチュのほうが健康にいいということがわかる。いくとわかるが2000mと3000mの標高差は雲泥の差である。
・アンデスでは金持ちは標高の低いところに住んでいる。だから空港は高いところにあって、繁華街へは下って行く。
・クスコは乾燥しているが、マチュピチュは熱帯雨林。緑が豊富だし、熱帯雨林ではあるけれど水はけもよく高地ではあるので、それほど暑くない。
・風光明媚。都市を作るほどの平らな土地がないので別荘地が適当だ。
・建物が堅固で豪華。これほどの石を集め、石工を集めて緻密な建物を作るのは、時の権力者にしかできないことだ。
・インカ道がクスコから伸びていて、100kmの距離にある首都クスコとの密接な関係があることがわかる。
マチュピチュ遺跡の中の植物園 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ遺跡市街地の真ん中あたりに、小さな植物園がある。多分最初からなんらかの植物は植えられていたのだろう。だけど、500年前、土地の少ないマチュピチュで、食料としてではなく、観賞用の花を栽培するゆとりはあったんだろうか。このミニ植物園とは別に小さな段々畑の農業試験場もあったようで、そこではいろいろな植物の種や、栽培跡もあり、マチュピチュでの農作物育成研究をしていたらしい。高度な生活スタイルを持っていたのかもしれない。
ここは植物園というよりは、自然保護区といった趣がある。マチュピチュ遺跡付近はランの宝庫だと聞いた。標高2400mで暑くもなく寒くもなく、適度な湿気があるので、ランの生育には適しているのだろう。ランというと豪華な花を思い浮かべるが、ここに自生しているものは、花が小さく原種そのままなんだろう。
これはなんなのだろうと調べてもほとんどがわからない。これはウンヤワンヤと書いてあるブログもあったけど、それで再検索してもなにも出てこない。花の形と葉の様子からみるとランの種類のようだけど。インカ道にもたくさん生えていた。
この花は、遺跡ゲートの近くにも咲いていた。地元の花なんだ。
もしかして、ペルー国花、カントゥータの花かな。インカの聖なる花とも言われるようだ。フクシアの親戚みたいな顔をしている。
これは、ランでもないし、さっぱりわからない。
トケイソウですね、これは。スイカみたいな丸いのは、多分、トケイソウの実じゃないかな。調べてみると、ドンピシャだわ。トケイソウの原産地は南アメリカの亜熱帯地方とある。そっかぁ、インカの人たちはトケイソウを楽しんでいたんだ!
鳥も飛んでいた。遺跡の建物のあるところで鳥は見かけなかった。ミニ植物園のあたりだと、えさがあるってことね。
背中が緑の鳥。目が大きすぎ。
この花は、あちこちに咲いていた。なんだろう。遺跡のむこうは、ワイナピチュ。
マチュピチュ遺跡ひとめぐり [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ遺跡は、原則、一方通行になっているようだ。どちら方向に向かってもとがめられるわけでもなく、好きなところ、目のつくところに行ってもいいのだが、たいてい、現地ガイドさんが案内してくれるので、ほぼ一方通行は守られているようだ。
マチュピチュ遺跡内にトイレがなく、飲食禁止なので、必然的に、遺跡内滞在時間は、1回あたり、3時間程度になる。遺跡への入場チケットは5000円くらいだが、出入り自由なので、時間のある人たちは、トイレやランチで、いったん遺跡の外に出て、また戻ってくるということをやるらしい。でも私たち団体のように、1回まわってそれっきりというのが、大半ではないかしら。
さて、マチュピチュ市街地の最高地点にやってきた。インティワナと呼ばれているところだ。インカの人たちは、太陽を崇拝していたので、太陽に最も近いところ、つまり市街地の中でも高いところに「太陽をつなぎとめる石」インティワナを置いたという。インティワナは日時計として使われていたという説が有力のようだ。わながはりめぐらされていて近づけないようになっている。
現地ガイドさんによると、何年か前に日本の報道陣がきて、資材を柱にぶつけて損傷させてしまったため(折れたとか)だ、という説明だった。私もその記事を読んだ記憶がある。再度その事件を調べようとしたが、不思議なことに、みつからない。まるで報道規制でもしているようだ。
ひとつの岩盤をくりぬいて造ったものなので、損傷するということは、大変なことなんだと思うけど。
リャマは、放し飼いになっていて、ブログなどをみると、いろんなところに出没しているようだ。
で、今日は、農業試験場のあたりで草を食んでいた。
リャマは、マチュピチュの石を運んだ立役者らしい。人がいなくなった後も、ここで生き続けていたのかな。
ワイナピチュ登山口の広場では1頭のリャマが観光客に囲まれて当惑していた。
さて市街地の一番奥まで来たので、下のほうに回り込んで戻っていく。400m下の谷底のウルバンバ川が怖ろしい。
写真のポーズもいろいろあるものだ。でも気持ち、わかりますね。
2階建ての家もあったのだ。
コンドルの神殿あたり。少年が羽を広げたコンドルを真似て記念写真を撮っている。
帰り道は市街地を見上げながら。
朝来たひとたちは、いっせいにランチのために戻っていく。
帰りは、市街地の正規の入口ではなく観光客用の棚田の中の道を通る。
振り返って、遺跡の見納め。
インカの末裔みたいな人とすれちがった。先祖の遺産を見に来たのだ。
これが、遺跡の入口。ここから遺跡はまったくみえない。
この右に有料トイレがある。左にはサンクチュアリーロッジがあり、そこのレストランにもトイレがある。
サンクチュアリーロッジは、遺跡のそばのホテルとして、ここに泊まることをうたい文句にしているツアー会社もある。
私たちは、ここでランチになる。お昼なので、ほぼ満席くらいに混んでいた。
ビュッフェ方式なので、火の入ったものを選んだ。
谷底から湧き上がる蒸気 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
遺跡めぐりも終わり、サンクチュアリロッジのレストランでランチを食べると、もう本日の観光予定は終わりとなる。
ロッジの脇には、マチュピチュ遺跡のミニ植物園でみたのと同じ植物が咲いていた。ペルー国花、カントゥータかな。ちょっと違う感じもするけど。
帰りのシャトルバスが谷底のマチュピチュ村に着いたころには、雨になってきた。ウルバンバ川がすごい勢いで流れている。その上には、レストランがあるのだけど、その建物があとちょっとで流されそうな勢いだ。
その隣にある線路には電車が停まっていた。マチュピチュの駅は引き込み線で少し上のほうにあるが、線路はさらにアマゾン方向に続いている。だが、数年前の大洪水で線路が壊されてしまい、今、電車はここから少し先くらいまでしかいかないらしい。とりあえず、ドル箱のマチュピチュまでの線路が復旧すればいいということかな。
マチュピチュ村のホテルに戻ってきたのは午後2時を過ぎていた。夕食は6時からなので、少し時間がある。温泉に行った人もいる。雨は降ったり止んだり。町中をぶらぶらと見て回ることにしたが、狭い町だし、そんなに見るところところもない。で、お決まり、お土産物屋を見て回ることにした。電車の駅のそばにはアーケード式で濡れないでショッピングできるところがある。アルパカのマフラー、セーターなどがたくさん置いてあった。
雨に濡れてポインセチアが光っていた。台湾の阿里山の中腹あたりにもポインセチアがたくさん自生していたが、そういえば、気候が似ている。よく雨が降り、亜熱帯性で、気温が比較的高い。あ、ケニアのロッジでもたくさん咲いていた。やっぱりポインセチアは暖かいところの植物だ。クリスマスのために真冬の花屋に並ぶのはかわいそう。
観光4日目
マチュピチュ村で2日目の朝を迎えた。今日の午前中の予定は、マチュピチュ遺跡からクスコ方面に伸びているインカ道を歩くこと。午後は、クスコに戻る。
お天気はどうかな、と空を見上げるのだが、山がせまっている谷底なので、光があまり入ってこなくてよくわからない。昨日より1時間半も早い、6時半にはホテルを出発して、再び、マチュピチュ遺跡へ向かう。
昨日と同じく、シャトルバスに乗り込む。
ウルバンバ川にかかる橋は、車1台を通すのがやっとなので、向こうから来るシャトルバスを待たねばならない。だけど、あのバス、こんなに早い時間に遺跡から下りてきたのかしら。
バスは、昨日と同じで、猛烈なスピードで山を駆け上がっていく。2日目ともなると慣れたもので、あまり怖さを感じなくなった。山を上がるにつれ、靄が湧きあがってきて白くなる。
昨日夕方降った雨が、いっせいに水蒸気になって蒸発している。
山の上のほうは、朝日を浴びて輝いている。大自然のドラマが始まっていた。
谷底の川も今日はそれほど怖くない。それより、この神々しさはどうだろう。
水蒸気の塊は刻一刻と形を変えていく。
・・・・・と見とれていたら、遺跡入口に着いた。
サンクチュアリロッジも輝いている。ここに泊まった人たちは、昨日のお土産物屋で楽しむことはできないけど、この朝の一大イベントをたっぷりと楽しむことができるだろう。
天空に浮かぶマチュピチュ遺跡からインカ道へ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
昨日に続いて再びマチュピチュ遺跡のゲートをくぐる。でも、今日は、マチュピチュ市街地には行かない。
マチュピチュ市街地の門からクスコまで続くインカ道を、インティプンクまで歩く。インティプンクとは「太陽の門」と言われているが、つまるところマチュピチュ市街地に入る人たちの関所にあたる。
ゲートをくぐって展望のいいところまでくると、そこは一面の雲海ですごいことになっていた。
遺跡も半分くらいは雲海に包まれている。ワイナピチュも見えない。
谷底のウルバンバ川も見えない。
雲海はどんどん姿形を変えて、少しずつ天に昇っていく。雲海は、ちょうど、マチュピチュ市街地の上まで昇り、市街地が全貌をあらわす。
まるで雲の中に浮かんでいるような光景。
大自然の織り成すダイナミックな営みを、しばらく眺めていた。
さて、インカ道に入る。500年前に造られた石の道は、そのままの姿で残っている。行く手は雲海のドラマの真っ最中。
道の壁が素晴らしい石積みになっている。
もうマチュピチュ遺跡はみえなくなったが、蒸気はまだ谷底から湧き上がってきているので、目を奪われる。
段々畑がこのあたりでも造られているところがある。排水溝まで造られている。これも500年前に造られたもの。きめ細かく造られているのがわかる。その排水溝の下のほうにサンクチュアリロッジが見える。
蒸気の上昇はだいぶ落ち着いてきたようだ。谷底が見える。
インカ道もだんだん山奥らしくなっていく。標高も2500mくらいなので、息が切れる。一眼レフが重い。
だけど、木にぶらさがっているイトゴケが、太陽の光を浴びているのをみると、頭がリフレッシュされる。イトゴケは空気が清浄な高山でみるものだ。あたりの空気がすがすがしくて気持ちいい。
それに、これはペルーの国花、カントゥータではないか。
大きくしてみる。
ワイナピチュが見えてきた。マチュピチュ市街地の上の山だ。地上の蒸気はワイナピチュの上にまで昇ってきた。
どれくらい歩いただろうか。30分くらいかしら。とうとうマチュピチュ遺跡が見えるところまでやってきた。写真下のほうに小さく遺跡が見える。見張り小屋やワイナピチュ登山口あたりが見えている。
記念に拡大しておこう。
インカ道を歩く ------ワイナピチュの頂上まで蒸気が昇った------ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インカ道は尾根伝いにクスコまで続いている。それどころか、かつてのインカ帝国の支配下にあった地域に4万キロの長さの道があるという。石が敷かれていて歩きやすくなっている。
木が生い茂っていて、傍らには花が咲いている。お花畑という感じではなく、ひっそりと500年間咲き続けているという趣がある。花のほとんどは残念ながら名前がわからない。
これは顔がマメ科だわ、品がいい。
ときどき視界が開けたところに出ると、マチュピチュ遺跡が見える。蒸気がもうワイナピチュの頂上付近まで昇っている。写真左隅にみえるのがマチュピチュ遺跡。見張り小屋はとんがった建物で遺跡の端にあるからすぐにわかる。見張り小屋がその名の通り、遠くまで見張れる位置にあることがわかる。
谷底まで見えてきた。
竹のような草。ひげが節々に生えている。
これはベゴニアの親戚ですね。シュウカイドウかな。我が家の庭先にも咲く。
マチュピチュ遺跡がよく見えてきたので、少し拡大してみてみる。歩いてきたインカ道が左に伸びているのがわかる。写真右下に青緑のサンクチュアリロッジの屋根が見える。
これは日本でもよくみる花のようだけど。
あら、ルピナスもアンデスに咲くのねぇ。
オレオカリス・グランディフローラ (ヤマモガシ科)
ヤマモガシ科なんてはじめて聞きました。
花びらがとがっていて特徴があるから名前もすぐにわかりそうなものだけど・・・。
ついにワイナピチュのてっぺんまで見えるようになった。雲海がワイナピチュの上まで昇った。ワイナピチュはマチュピチュ市街地から見ると細くとがって見えるが、ここから見ると、横にひろがっている。あのワイナピチュをぐるりとウルバンバ川が回り込んでいて、自然の要塞になっているのだ。
シャトルバスの走るジグザグの道もはっきりと見えてきた。マチュピチュ遺跡は左の尾根の上に、緑がえぐれて白っぽくみえるところだ。
ワイナピチュの頂上付近を拡大で撮っておこう。頂上に何人かの人がいるのがゴマ粒のように見える。段々畑にも人がいっぱいいる。あの人たちも、蒸気の昇る大自然のドラマをみたのだろうか。それとも蒸気の中にいたはずだから、まわりはなにも見えなかったのだろうか。
昨日の雨のしずくをまだ残している花。
葉っぱがぎざぎざの黄色い花。Cassia Hookeriana マメ科 みたいだけど、日本ではなんて読むのかな。
ランの新種発見、とでも言いたくなるような変わったラン。
こちらも同じくラン科のエビデンドラムの一種らしい。マチュピチュ市街地のミニ植物園にも咲いていた。
インカ道を歩く ----インティプンク、太陽の門---- [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
木や草の間から時折姿をあらわすマチュピチュ遺跡は少しずつ形を変えていく。地図をみると、尾根伝いに太陽の門まで、遺跡の真正面に回り込んでいくようになっている。
谷底のウルバンバ川もはっきりと見えるようになった。崖にはみ出している花は、近くで撮ることができない。
遺跡を背景に・・・・・うーーーん、イマイチ。
Epidendrum Secundum (エピデンドルム セカンダム)ラン科
エビデンドラムのオレンジ系は遺跡のミニ植物園でもみたが、ピンク系もある。
これはナンダロー。
これはほとんど花期が終わっていると思うが、元の姿を想像して。
もうこのころになると、息切れが激しくて、もうダメダ~。
と思ったら、最終目的地の太陽の門、インプティンクだった。さすがにインカ帝国皇帝の別荘の関所だ。立派。
ここからみるマチュピチュ遺跡はすばらしい。
写真左の道が今、歩いてきたインカ道、ジグザグに見えるのが谷底のマチュピチュ村からのシャトルバスの走る道路。
記念に遺跡の拡大写真を。
左下に緑色の屋根のサンクチュアリロッジ。
インカ道は、さらにクスコに向かって伸びている。が進入禁止マークがある。遺跡の入場チケットで行けるのはここまで。
上の写真のインカ道は、ここ太陽の門で大きく90度に曲がっている。右側が山、左側が谷、という位置関係は変わらないが、山のまわりを、ここでぐるりと回ることになるので遺跡は見えなくなる。写真右側の山のさらに右方向が遺跡になる。
クスコから歩いてきた旅人は、ここ太陽の門で、はじめてマチュピチュ市街地を目にすることになる。
インティプンク、太陽の門の標識には、2720mと書いてある。ここはワイナピチュと同じ高さだ。遺跡が2400mだから300m、登ってきたことになる。息が切れるはず。
Bomarea albimontana(ボマレア アルビモンタナ) ユリズイセン科
現地名 シュル・シュル(Shullu shullu)または Campanita(Little bell)
上の標識の脇に咲いていた花。
インカ道を歩く -----光るちょうちょオーロラモルフォチョウがいた ----- [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
インティプンクからの記念写真。左からマチュピチュ遺跡、その下にサンクチュアリロッジ、シャトルバスの入るじぐざぐの道路、ワイナピチュ(山)、ウルバンバ川。ここインティプンクを含めてマチュピチュ遺跡のすべて。
ウルバンバ川はワイナピチュをぐるりとひとまわりしているが、その隣の山もぐるりと回り込んでいる。
下の写真の左がワイナピチュ、ウルバンバ川の右側はマチュピチュ村へ続く。線路と道路が見える。ウルバンバ川の真ん中が草むらでみえなくなっているが、そこに橋があって、シャトルバスは、向こう岸からその端を渡って、こちら側のじぐざぐ道路を登ってくる。
インティプンクの石垣のまわりは日本でもよくみるフーロが咲いていた。
ピンクのラン科の花、エビデンドラムも鮮やかに咲いている。
インティプンクからは、また同じ道を引き返す。300mの下りになるので、みんな速いこと、カメラ遊びなどしていると置いて行かれそうになる。
めずらしくブルー系の花。
タンボと呼ばれる宿泊施設跡まで下ってきた。行商人たちなどは、マチュピチュの市街地には入れてくれないので、ここに泊まったらしい。
ここで突然、騒ぎが巻き起こった。素晴らしい虹色のチョウチョがひらひらと飛んでいて、遺跡どころではなく、みんなカメラで追いかける。下の写真のど真ん中の白いのがチョウチョ。
調べてみるとオーロラモルフォチョウに近かった。ボリビアやペルーに生息すると書いてあるからドンピシャだ!!!
開長85mmという大きさもそのとおり。ピンク系やブルー系など少し色のニュアンスが異なるのもあるようだが、これはどうもピンク系。羽が動くのにあわせて虹のようにきらきら光っている。真珠色に輝いたかと思うと、アクアマリンの淡いブルーもある。ピンク系のダイヤモンドのような光も放っている。
あ~~ぁ、飛んで行ってしまった~。こんなにきれいなちょうちょ、初めて見た。こういうときとっさにシャッター優先にして撮るほどにはカメラを使いこなしていないことを反省する。
帰りは下りなので、息切れしないで歩ける。
マチュピチュの見張り小屋が見えてきた。往復4kmもないと思うが、登りで1時間以上かかり、インティプンクでも30分ほど休憩したりしていたから、3時間近くもかけたのんびりミニハイキングだった。
シャトルバスのバス停までさらに下りていく。
遺跡の中に咲いていた花。遺跡は石でできているし、土があっても芝以外は手入れされているので、花はめずらしかった。
シャトルバスの窓から撮った写真。ウルバンバ川と、橋と電車も見える。
マチュピチュ村に入ると子どもが遊んでいた。これもバスから。
さて、お昼は自分たちで勝手に食べることになっている。午後の電車の時間まで1時間あまり。結局朝のホテルのパンの残りをベンチに座って食べた。同じことを考える人が何人もいたのはおかしかった。
この線路、さっきまで電車が走っていたところじゃぁないの。この線路はマチュピチュ駅の引き込み線とは別のアマゾンに向かう線路なのだが、大洪水であまり使われなくなったみたい。それでも電車は走っているのだから危ない。
マチュピチュ村の駅は川の右側で、アーケードになっているところにお土産屋がびっしりと入っている。左側にもホテルやお土産屋やレストランが並んでいて、日本の温泉街そっくりだ。
この川は、ウルバンバ川の支流になり、合流地点のすぐ手前で撮っている。
ちょうど電車が走ってきたところが、川の合流地点。線路は2つの川の合流地点という危険なところを走っている。ちょっとした雨で水没しそうだと思って、調べてみると、やっぱり洪水が多い地点のようだ。マチュピチュの引き込み線を高いところに作ったのは正解なんだ。
100年間列車を運んでいる線路 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ駅(アグアスカリエンテス駅)をお昼過ぎに出発するビスタドームに乗り、オリャンタイタンボまで戻る。帰りは、川側の席が取れた。午前中のインティプンクまでのミニハイキングでくたびれてはいるが、せっかくの川側の座席だ、窓からの景色を楽しもう。
山側は、目の前の山肌しか見えないのだが、川側は、展望が開けている。
電車が動き始めてすぐに目につくのが、段々畑だ。山の上の遺跡にあったのと同じつくりだ。使われていないと見えて、半ば土に埋もれている部分もある。
マチュピチュを1911年に発見した考古学者のハイラム・ビンガムは、この段々畑に興味を持った。オリャンタイタンボからウルバンバ川を下ってくるとき、この段々畑が続いているのをみて、きっと遺跡があるに違いないと思ったそうだ。というのも段々畑はインカの文化だったからだ。土地の少年が、使っていない段々畑は上のほうにもある、というので、上まで登っていったところにマチュピチュ遺跡が眠っていた、というわけだ。
電車は単線なので、対向列車待ちがある。
対向列車が通り過ぎると、そろそろと電車が動き始める。川の流れが線路のすぐ近くにある。これでは洪水が少しでもあると浸水してしまいますねぇ。
どうしてこんなに危険な川のそばに線路を作ったのか、と不思議に思う。それにマチュピチュ村までの交通機関は、電車しかないのだ。
ペルーに汽車が走ったのは、1851年で南米で初だ。ちなみに、日本で初めて汽車が走ったのは、1872年、新橋、横浜の間。ペルーでは日本よりも20年も早い時期に線路が敷設されたのだ。
クスコからマチュピチュを通って、さらに奥のキャバンバまでの鉄道敷設がペルーの国会で承認を得たのは、1905年、建設は1907年である。なんと、ハイラム・ビンガムがマチュピチュを発見する1911年より5年以上も前に鉄道が建設されはじめたのだ。鉄道の終着駅であるキャバンバまでの線路が完成したのは1928年。
マチュピチュを通る鉄道は、アマゾンのジャングルの中にあるキャバンバで採れるカカオやコーヒーをペルーの海岸まで輸送し、さらに海外へ輸出するための鉄道だったのだ。
今では、マチュピチュからキャバンバまでの20kmほどは、1997年の洪水による崖崩れで廃線になっているとのこと。私が、マチュピチュの大洪水で旅行取りやめになったのは、3,4年前のこと。つまり、この鉄道は、常に洪水の危険にさらされているということではないか。
線路が使えなくなったキャバンバのカカオやコーヒーは、今では迂回路を車で運ばれているらしい。今となっては、線路を作りなおすより道路を新しく切り開くほうが国全体のコストパフォーマンスがいいということだろう。
ではマチュピチュへの交通機関は、今後道路に代わっていくのだろうか。そういうはなしは聞こえてこないところをみると、電車で行くマチュピチュということ自体に付加価値ができてしまっているし、観光客を運ぶくらいでは道路建設のメリットが少ないということなんだろうと思う。観光客を大量に運べたとしても、マチュピチュ遺跡自体が悲鳴をあげることになるだろう。そうでなくてもシャトルバスである程度の人数制限を行っているのだから。
100年間、走り続けている列車。何度も洪水被害を受けながら頑張っている鉄路。スゴイネェ。
窓の外に気を取られている間に、車内ではいつのまにか、音楽に合わせて、鬼の仮面をかぶった派手派手ピエロが踊りまくっていた。そのうちお客さんまで連れ出して踊っている。
どんちゃか騒ぎに続いてアルパカのファッションショーが始まった。モデルのお兄さんは、多分、さっき軽食を配っていた人だ、ちょっとかっこいい。
女性のモデルも出てきて、何着か、披露していた。土産物屋でみるアルパカのセーター類よりは、はるかに洗練されているのがわかる。
だけど、せっかくの川側の席なので、外もみていたい。川沿いに、段々畑がオリャンタイタンボまで続いているのだった。ハイラム・ビンガムさんは、これをたどっていったのね。
トンネル技術もまだなかったころの鉄道敷設なので、川に沿ってくねくねと曲がった路線だ。マチュピチュ村からオリャンタイタンボまで800mの標高差を登っていくにつれ、熱帯雨林のジャングルは消え、乾燥気味の山が見えてくる。
河原にすすき!!
オリャンタイタンボが近づいた。ここで電車を降りて、バスに乗る。クスコまではバスでショートカット。
往きに見たのと同じ風景がひろがっていて、なんだかなつかしい。
オリャンタイタンボの山々。
バスが峠にさしかかると、オリャンタイタンボの町が広がる。遠くに雪を被ったアンデスの山が見える。
ここで標高2800mのオリャンタイタンボとはお別れ。ここから標高3400mのクスコまで、バスでさらに標高差600mを登っていく。
オリャンタイタンボからクスコまでは、豊かな田園風景が広がる。3日前に来た道を戻っている。来るときは、朝だったけど、今は夕方。
あら、ソラマメの花だわ。実を塩ゆでしたのが大好物なので、我が家の猫の額の畑で作ろうとしたが、うまくできなかったことを思い出した。
同じ風景を往きでも見たが、午後の光のほうが、色が濃くなる。
ジャガイモの花が満開だ。スーパーではみたこともない種類のジャガイモが売られていた。10種類くらいあったかしら。
標高からすると、このあたりが最も農作物に適しているのだろう。
標高3400mのクスコの夜 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
マチュピチュ村からクスコまではおよそ100km。午後1時半の電車に乗って、バスに乗り継ぎ、クスコに着いたのは、午後5時をまわっていた。4時間近くかかっている。1400mもの標高差のあるところを登ってきた。
3日前にリマからクスコに着いたときは、飛行機が遅れてクスコでの観光の時間がとれなかった。だからなんとか観光の時間をとろうと、インカの末裔らしき現地添乗員さんは動いてくれる。サントドミンゴ教会の観光時間は5時までなのだが、どうにか中に入れてもらった。、もうクスコの町も日が暮れかけていた。
写真はサントドミンゴ教会の2階外回廊から。
このサントドミンゴ教会はキリスト教の建物だ。だが500年前のインカ帝国時代は、インカの人々の創造神である太陽の神殿だった。インカの財宝が奉納されていたらしい。スペインが入ってきたとき、建物は壊され、中のものは持ち去られ、キリスト教の教会が建てられた。ところが建物の土台は、インカ時代のものが使われたために、内部にはきれいなインカの石組が残っている。
下の写真は、スペインがインカの石組の上に作った石組である。石と石の間に土が練りこまれていて、だれが見ても、インカの石組の美しさには及ばない。
スペインもとんだ証拠を残したものだ。
インカの末裔の現地添乗員さんがなんとしても見せたかったものが伝わってきた。
サント・ドミンゴ教会の中庭は、スペインのアルハンブラ宮殿を思わせるつくりになっている。
駆け足でサント・ドミンゴ教会を見学した後は、町を見ながら、レストランまでの道を歩いた。
こういう細い道をぬっていく。
ところどころに間口があいていて、お土産にするようなものを売っている。大きな荷物をしょった現地の人。
この通りはインカ時代に造られた石組だ。見事。
石の大きさに合わせてきっちりと組んでいる。いつも剃刀の刃も通さないと表現される。
また大きな荷物を背負った現地の人。
この通りは新しいようだが、段差がつけられている。これだと水はけもいいですね。だが、これはきっとスペイン時代の道路だろう。石が違う。
突然、アルマス広場に出た。クスコで一番にぎわう場所だそうだ。もうとっぷりと日が暮れていて、山に広がる住宅の灯が、お星さまみたいだ。
その広場のど真ん中にも荷物を背負った現地の人がいる。荷物の中身は何なんだろう。
反対側もきっと山なのだろうけど、山の中腹のキリストが光っていて広場を見下ろしている。
ペルーの宗教は、ローマ・カトリックが89%、プロテスタントが6.7%だそうだから95%がキリスト教なのだ。インカの太陽の神はどうなったんだろう。人種構成を見ると先住民45%、混血37%、ヨーロッパ系15%、その他3%だそうだから、先住民が多いのだが、長期間にわたるスペイン時代にキリスト教になっていったのだろう。
さて、レストラン「ドン・アントニオ」に着いた。フォルクローレショーつきだ。
アンデスの笛ケーナが響き渡る。
お面をかぶっている女性が杖をもっている。なにか有名なストーリーが展開しているのかもしれない。
ダンスも素敵。結構有名な踊り手が出演するらしい。
だけど、朝早くからマチュピチュのインティプンクに登った疲れが出てきたのか、踊りを楽しむどころではなくなった。こういうのって、結構、気合いを入れてみないと楽しめないのよね。念のため、アルコールは控えたのだけど。
そういえば、3400mもの標高で一晩過ごすのは、初めてだ。3000mを超えたことはなかった。マチュピチュにいくときはクスコを通ったが、泊まらなかった。標高に慣れていくということでは、リマの0m地帯から、クスコを素通りして、2000mのマチュピチュで泊まり、次が3400mのクスコで泊まる、ということになるから順当である。だが一刻も早く、ベッドに横たわりたいのは、ハイキングの疲れもさることながら、きっと3400mの標高がきいているんだろう。
標高3800mのチチカカ湖が見えた [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
観光6日目
標高3400mのクスコで、無事、朝を迎えた。
マチュピチュに行くために預けていたスーツケースもホテルに届けられていた。
本日の行動予定は、ペルーのクスコからボリビアのラパスまで飛行機で行き、ラパスの町を見学することになっている。ラパスの空港は標高4000mを超える。お泊りはラパス。
飛行機会社はアマゾネス航空、名前がいいじゃない!
ギリシャ神話に出てくる女性戦闘集団の名前ではないか。いや、クスコ一帯は、アマゾン川の流域に入るからアマゾネスになるんだろう。そもそもギリシャ神話とアマゾン川の関係はどうなっているんだろう。
ワーグナーのオペラ、リングに出てくるワルキューレに喝采を送る身としては、アマゾネスは魅力的。さらにラッキーなことに座席は窓側。だが、視界の半分は羽が占めている。まぁ、よしとしよう。
飛行機の離陸寸前。クスコの密集した街並みが、滑走路のすぐ近くまでせまっている。
離陸すると、クスコの山の上のほうの民家がよく見える。
飛行機が高度をあげていくと、豊かな農村地帯になっていく。
川の流れが茶色い。民家がだんだん見えなくなる。
1時間くらい飛ぶと、湖が見えてきた。チチカカ湖だ。標高3800mだからクスコより高いところにある。
さすがに広い。えんえんとチチカカ湖。
チチカカ湖の写真上半分はペルー領、下半分はボリビア領になる。このフライトで国境を超えるのだ。
チチカカ湖に浮いているという葦でできた島をさがしたが、全然分別がつかない。多分、写真上のほうの半島に隠れてしまっていると思う。それにしても飛行機の羽がじゃま。
湖は雲を写しておだやかだ。
なんという島なのかわからないけど、島がみえるというだけで、なんだか嬉しい。
水の色が微妙に変わっているのはどうしたことだろう。
グーグルマップで調べてみるとこの島には名前がついていた。写真と地図が一致すると、とても満足感がある。
まだまだ島が見えてくる。
あれっ、そろそろ終わり?
チチカカ湖は終わり。
と思ううちにすぐにラパスの上空に来た。チチカカ湖とラパスは50kmくらいしか離れていない。だったらチチカカ湖に寄ってもよさそうなものだが、そうすると、また2日がかりになってしまうので、今回は寄らない。
標高4000mのラパスに到着だ。
ロープウェイは、標高4000mのラパスの都市交通手段、 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
朝10時45分にクスコを飛び立ち、12時半には、ボリビアのラパスに着いた。2時間もかからないフライトなのだが、国境を超えるのでそれなりに時間がかかってしまう。
ラパスの空港は、厳密に言えば、ラパス市内ではなく隣町のアルトにある。正確にはエル・アルト国際空港と呼ばれる。標高4150mにある世界最高標高の国際空港として知られている。酸素濃度が薄いためにエンジンの燃焼効率が悪いとか、揚力発生能力が低いなどの難問があるようだ。
標高が4000mもあると、気圧も低いので、持っていたあめ玉の袋がパンパンにふくれあがってしまう。ご飯はおいしく炊けるのかなぁ。もしかして体重は軽くなっているかも。
そういう町で、これからロープウェイに乗って昼食を食べるレストランに行く。ロープウェイ乗り場は、空港からバスで10分ほどのすぐ近く。2014年5月に開通したばかりだ。
写真は、エル・アルトのロープウェイ乗り場。
現地の人も乗ってくる。
この方は、ここで降りた人かな。
さて、ロープウェイが動き始める。ロープウェイというと、まずは上がっていくもの、と思う。だが、ここは違う。下がっていくのだ。標高4000mともなると、常識が通用しないことも出てくる。
眼下にエル・アルトの民家がぎっしり。
すり鉢状に広がる土地は家ばかり。エル・アルトはラパスの衛星都市なので、どこからラパスなのか、わからない。埼玉、神奈川、千葉、東京を含めて東京近郊と言っているのと同じで、この辺全体が、ラパスだ。
山のほうを見れば、遠くに雪を被ったアンデスの山々が見える。ボリビアでは標高6500mほどの山もあるのだ。
はるか行く手の下のほうに、高層ビル群が見えてきた。
それにしても、このおびただしい民家。エル・アルト市の人口は118万人とあった。ラパスは100万人に満たないようだけど、おおよそのところ、200万人近くが、このすり鉢のまわりに住んでいるのだ。
民家の上をなめながら滑るロープウェイは世界広しといえども、ここにしかないだろう。
ロープウェイはどんどん下りていく。ラパスの中心街の標高は3600mだから、500mほど下りる計算になる。
やはり標高が高いところは、住みにくいようで、お金持ちは、すり鉢の底のほうに住んでいるそうだ。高くなれば空気が薄い上に、坂道を登ったり下りたりしなければならない。
このロープウェイができたおかげで、今まで車で30分かかっていたところに10分で行けるようになったとか。
庶民の足にもなっているようだ。
駅が見えてきた。これは途中の駅で、私たちが降りるのは、その次の駅。そこが終点になる。
駅を素通りして・・・・
これはお墓だって。団地方式のお墓なんだ!
お墓の続き。ラパス最大の墓地だそうだ。
そろそろ終点。
10分間のスリル満点のロープウェイでした。
このようなロープウェイは現在、3本運行されていて、さらに6本ものロープウェイが計画されているそうだ。
ラパスは家が密集しているし、地下には102の水脈があって、地上にも地下にも線路を作ることができないとのこと、バスが庶民の足だったが、それも限界にきていて、窮余の一策としてロープウェイがつくられている。
その地下水脈やアンデスの山からの雪解け水のおかげで、水には困らないそうだ。
今乗った区間は2.4km。現在運行中の合計距離は10kmに及ぶ。ゴンドラの定員は10人、1時間に3000人を運ぶことができるそうだ。ロープウェイとしては、世界最高標高だそうだ。都市交通としてのロープウェイの距離数も世界最高だとのこと。
すごいところに来たものだ。
膨らんだスカートとショール、山高帽、背負った風呂敷の4点セット [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
ロープウェイを降りて、さらにバスで中心街まで行き、歩いてレストランに向かう。大型バスでは町中を走れない。町はとてもにぎやかだ。
大都会の繁華街でも女性の膨らんだスカートと山高帽とショール、それに極彩色の模様の風呂敷が、目につく。
下の写真の方は、山高帽、スカート、ショール、風呂敷の4点セット。
膨らんだスカートに大きなショール。
下の写真の右側の方は4点セット、左の方は、帽子がなくて3点セット。
こういう繁華街を歩いていく。
下の方は、山高帽、スカート、ショールの3点セット。かなり上質な感じがする。色の取り合わせも品がいいが、こういうのはめずらしい。
さて、レストランではコカ茶を頼むと、コカの生の葉っぱが入っていた。高山病に効くらしいのでいつもコカ茶を頼むが、生の葉ははじめて。日本では輸入禁止なので、なんだかうれしい。
食事の後は、ラパスの中心、ムリーリョ広場を散歩した。遠くの山には家がびっしりとみえる。鳩の多さに驚く。
赤と白の建物は、大統領官邸。
広場で腰かけているおばさまは、帽子が山高帽ではなくて普通だ。だけど極彩色の風呂敷は地べたに持っている。
ここは、国会議事堂かな。
竪琴を弾いている女性の像がある。これはどうみてもスペインの遺したものですね。このあたりの建物はほとんどスペイン時代に建てられたものだろう。
子どもと遊んでいるおばあさまは、帽子がふつう、荷物も背負ってない。スカートとショールの2点セット。
大統領官邸の前の警備員さんたちは、一緒にカメラに撮ってもいいそうなので、しばらく撮影大会になった。警備員さんの服装がおもしろい。
議事堂の時計がさかさまに時を刻んでいる。ここは南半球だから反対にしている、という説明を受けたが理解不能だ。調べてもわからない。まさか、ボリビアの時計全部が反対にまわっている、なんてことはないですよね。
スペイン統治時代の反動で、北半球に逆らっているような感じを受ける。
女性の服装は、不思議だ。膨らんだスカートや山高帽が、民族衣装としてガイドブックなどには載っている。スカートは何枚も重ねて膨らませているそうだ。今では4,5枚だが、昔は10枚くらい重ねていたとか。
だが、標高4000mのアンデスの山地で、生活感のない、そんな服装が本当に民族服として愛用されてきたのだろうか。もっとも日本の着物も今では日常的な感覚からかけ離れてきているので、もしかしたら庶民の民族服というのがあったのかもしれない、と思って、ネットを検索してみたが、どうもわからない。
ひらひらのスカートはどうも、スペイン統治時代の18世紀ころ、強制されて着せられはじめたらしい。だから、スカートは、当時のヨーロッパ風。ショールも強制かしら。あるいは、スペイン人のお妾さんになる人が多かったようだからスペイン女性の真似をしたのかもしれない。そういえば、スペインの踊り子はカラフルなショールをつけている。
帽子は、まさか強制はされなかったと思う。ヨーロッパの男性の帽子をなぜか女性が真似した、という説はあった。これはうなづける。アンデスは標高が高くて陽射しがきついので、陽射しを避けるためにも帽子は便利だから。だけど、あの山高帽では陽射しを避けるのには適していない。だいいち、頭にちょこんと載せるだけなので、その形を維持しておくのにヘアーピンでがんじがらめに留めておかなくてはいけないだろうから着け心地がよくないだろう。
だが、あの派手派手風呂敷を背負うのは、起源がわからない。
風呂敷はとても便利だから、背負うこと自体は理にかなっていると思う。私も背負いはしないものの、風呂敷愛好家である。大きなバッグから風呂敷に包んだオーケストラの演奏会用の黒のドレスを楽屋で広げると、まわりの人たちが、目を点にしてみつめるのだが、その伸縮自在性はとても重宝するからやめられない。ヨーロッパには風呂敷はないと思うので、アンデスの風呂敷の起源がわかるとおもいろいと思うのだけど。
再び、バスは、こういう路地のある道を登っていってキリキリ展望台に向かった。こういう路地はヨーロッパ風だからスペイン統治時代の遺産は、服装だけでなく生活の隅々にまでのこっているようだ。
キリキリ展望台から見えた月世界の町 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
ラパスの中心街でランチとムリーリョ広場を眺めたあと、向かったのはキリキリ展望台。キリキリとは、煤という意味なんだそうな。昔、この辺に火薬庫があり、いつも煤で汚れていたためにこの名がついているそうだが、今は、入場料をとる公園になっている。標高3700mで、ラパスの町が一望できる。
ラパスの町は、空港から中心街に行くときに、ロープウェイから見渡せたので、だいたい、想像がつく。ロープウェイからは、町のど真ん中からの景色だったが、ここ、キリキリ展望台は、町の高台にあるから、郊外のほうまで見渡せる。
うんと右側の公演入口近辺は、午後4時を回った日の光に照らされて輝いている。
山の上まで家がびっしり。
望遠側で真正面の山をのぞいてみよう。
さらにまわりこんでいくと、黄色のサッカー場も見える。
遠くのほうが低くなっているところがあって、そちらにも高層ビルが続いている。
だが、山の様子がヘンだ。灰色に死んでいる。
ちょっと望遠で。
やっぱりヘンだ。ぎょっとする景色だ。
望遠側でさらに大きくしてみる。
月の世界に町をつくったらこうなるのではないかという光景がひろがっている。あるところから先は家がなく、灰色だ。そこだけは生物が死滅したかのように見える。地殻から毒ガスでも出てきたのかもしれない。
右側にカメラを移して。
もっと拡大。
晴れ渡っていて、光も強いので、遠くまで写せるのがうれしい。
さらに低くなっている奥の遠くのほうもみてみる。
荒れた山と、カラフルなビルとのアンバランスは、いったいなんなのだ~。
もう一度、真正面に目を戻して、山の様子がおかしくなっているところを確認する。写真真ん中から左方向へ向けて、山の土質が変化していっているのがわかる。あのあたりからさらに左方向の低地へ向けて、山は月世界状態になっている。
そのあたりをさらに拡大してみてみると、右側は住宅地としてかろうじてOKらしくて、左側は土地が荒れている。
あとでわかったことだが、月の世界に見えたところは、「月の谷」と呼ばれる観光地だった。土壌の浸食でできた地形らしい。月の谷とは、よく名付けたものだ。これもあとでわかったことだが、なんと私たちの今夜のホテルは、その近くだった。ここ、キリキリ展望台は標高3700mだが、ホテルの標高は3300mなので、400mも低い。少しでも高山病の危険性が減ればそれにこしたことはない。月の谷近辺の荒れた土地にカラフルな高層ビルが並んでいた理由が解明できた。
さて、また元の風景のところまで戻る。ラパスらしい密集した住宅が並んでいる。
また入口方向に戻っていくと、傾いた太陽の光で家々はいちだんと輝いていた。
お花で記念写真。
もう1枚、金魚草とラパス。
ラパス郊外のホテルは標高3300m [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
ラパスのキリキリ展望台から、最後の記念写真を。丘の上までびっしりと詰め込まれた建物を背景にさわやかなデージー。
再びバスに乗って、めざすはホテル。富士山なみの標高3700mのキリrキリ展望台からホテルは、標高3300mなので、400mを降りることになる。
さて、夕方の5時過ぎにホテルに到着した。
素晴らしい部屋と景色に驚いた。リビングのソファや食事のできるテーブルがあり植木鉢まで置かれている。
右の開いているドアが入口。その横に冷蔵庫とキッチン。
レースのカーテンを開けると、素晴らしい景色が見える。キリキリ展望台から見た月の世界と同じような岩が見える。住宅がかなり上のほうまで建っている。後で聞いたことだが、これらの住宅は違法建築だとのこと。建築してはいけない場所らしい。多分地盤に問題があるのだと思われる。ぎざぎざの山は浸食がはげしくてどんどん姿を変えているということを聞いた。それにこの景観は観光資源でもあるので、みだりに汚してはいけないということもあるだろう。
夕日が明るく町を照らしているものの、背後の山々はなんとも不気味な様相をみせている。
気になるぎざぎざのところを拡大してみよう。驚いたことに山の上にぽつんぽつんと家が建っている。観光客用のレストランでもあるのだろうか。
別の窓からものぞいてみる。こちらは夕日をまともに受けているせいか、精悍な顔つきの山になっている。
おしゃれなビルと山とのアンバランスもここなら許されるかも。
上の写真のさらに左側。住宅が山裾を這い上がっている。
夕飯まで時間があったので、近くのスーパーまで行ってみた。どこに行くにも坂道を下りるか登るかのどちらかだ。どっちにしても少し歩いただけで息が切れてしまう。標高3300mとはこういうことか、と思い知らされる。結構安全な町のようなので、散歩でもしたいところだが、これだけ息がきれると歩く気もしなくなってしまう。少し歩いては、深呼吸を繰り返す。エベレストには登れないなぁ、残念だけど。
地元の人たちの心肺機能は、高地に適応しているそうだ。日本のスポーツ選手も高地トレーニングをやったりしている。
それでも標高3600mのラパスの中心街からは、さらに300mも標高が低いところのホテルでよかった。こうなると、100mでも低いほうがいいように思う。ボリビア方面を企画するツアー会社が、標高の低いところにホテルをとったことを売り文句にしていることが身に染みてわかる。
さて、夕飯だ。
食事にはいつもお米が出てくる。米粒が長くて、日本のお米とは様子がだいぶ違う。いわゆるガイマイの顔をしている。お米だけは外国では食べられない。必ずパンも出てくるから主食に困ることはないのだが。ここは標高が高いから、お米はちゃんと炊けているのだろうか。圧力釜を使えばいいのかな。
ボリビアの人たちは、いつもお米を食べるのかしら。ヨーロッパやアフリカでも、お米がいつも出てくるということはなかったのだけど。
調べてみるとボリビアの主食はパン・ジャガイモ・トウモロコシとある。お米を作るとなると水田を作らなければいけない。水田らしいものは見えなかった。
ホテルの食事にお米が出てくる理由として考えられるのは、まずひとつには、日本人向けの特別料理として出されているのかもしれない。次に考えられるのは、お米は高級な野菜として扱われているのかもしれない。
調べてもわからないことばかりだった。
デザートでこういうフレッシュな果物が出てくるとうれしい。アラカルトで盛っているお皿を見比べると、お隣の方と、中身がずいぶん違ってしまっていることがよくある。お隣はバナナが入ってなくてメロンの緑が中心になっていたりするのだ。日本のレストランではこういうことはない。盛り方はかなり厳密である。だが、こちらでは、結構適当に盛っているのがおかしくて笑ってしまうことがあった。
明日は、いよいよ、ウユニに向けて出発する。朝4時起きだ。
ラパスからウユニへ、夜明け前の大地 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
観光7日目
ラパスのホテルで午前4時に起きた。朝食は簡単なパンとコーヒーくらいをホテルが用意してくれていたが、朝、早すぎてとても食べる気になれないので、パンをナプキンで包んで飛行機で食べることにした。ホテル出発は午前4時40分。
せっかくの広い部屋のホテルだったのにゆっくりできなくて残念。
飛行機は午前6時45分発。1時間もかからないフライトだ。距離にすると、羽田、大阪間より短いかもしれない。
ラパスの町は、夜明け前の薄闇の中でまだ眠っていた。
雲を突き抜けると、山が光っていた。ボリビアの山は6000m級だけど、飛行場自体が標高4000mなので、そんなに高い山には見えない。
あれ~、別の山?
しばらくすると、大地が見えてきた。だが、どのような地形なのか判別できない。白いのは、塩かなぁ。雲かなぁ。
茶色のところは規則正しくなっているから畑だろうか。よくみると、粒粒がみえるから、これが民家のようだ。
次の写真の白いものは、明らかに湖の塩ではないだろうか。だけど、ウユニ塩湖は、まだのはず。茫洋としたとらえどころのない大地が広がっている。雨季もそろそろ終わり、乾季にかわりつつあるので、湖も水分が少なくなってきているのだろう。
ここは確かに湖だろう。淵がやはり白い。まさか波立っているわけでもないだろうし。
水と塩と土の色が場所によって交錯しているのだろう。美しい色合いが少しずつ変化していく様子はみていてあきない。
地図で見ると、やはりウユニ塩湖とラパスの間に大きな湖がある。それも塩湖なんだろうか。グーグルアースでみてみると、写真によく似た色合いの湖になっていたから位置はあっているようだ。
まだ日の出前。水が干上がった後に塩が残っている様子がだんだんはっきりしてくる。
見とれているうちのあっという間に、ウユニ空港に着いてしまった。到着は午前7時25分。雲が垂れ込めている。だけど、飛行機から大地は見えていたではないか。お天気はどうなんだろう。
小さな飛行場だ。ここに世界中の人々がやってくる。急激にウユニ塩湖の人気があがって、観光の受け皿が間に合わないということを聞いた。この空港もそのために2012年に新しく造ったばかりで新しい。
飛行機はまたアマゾネス。まだ日の出前。
飛行場の屋内に入ってまず目に付いたのが、診療所。なぜこんなところに診療所があるのかはすぐに理解できたが、少し不安にもなる。。ここは、標高3600mなのだ。きっと具合が悪くなる人が多いのだろう。
ウユニ空港からは、運転手を含めて4人乗りの四駆が交通手段になる。空港にはその車が待機していた。
さぁ~、これから楽しみ~。見渡す限り塩の世界が見れる!!!!
日の出はどうなったんだろう。心待ちしていたが、なんとなく日があがったようだった。
ウユニ塩湖の湖畔にビクーニャ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
さぁ、これからウユニ湖!!
と思ったら、スーツケースが飛行機に乗っていなかった、という事件が起きた。
というより、重すぎて乗らなかったから、荷物は次の便で運ばれるということだった。アマゾネス航空会社、戦闘女族アマゾネス、がんばれ~。
さぁ、どうするか。
飛行場には、なんにもなくて、時間のつぶしようがない。添乗員さんが近くのホテルにかけあってくれて、そこで次の便がくるまで2時間待つことになった。旅のハプニングは大いに楽しむべし。だけど、今朝の4時起きの頑張りは、これで帳消しだ~。
平屋の真ん中の共有スペースの両端には客室が並んでいる。日本でいうとユースホステルといった感じ。とてもホテルといった雰囲気ではない。お茶は飲み放題にしてくれたので、下の写真の椅子に座って、コカ茶を2杯飲んだ。
ホテル内をみて歩いても小さいのですぐに見終わってしまう。
外に出てみても歩き回れる雰囲気ではない。
山高帽に、ショール、膨らんだスカートに派手派手風呂敷を背負っているというボリビアの典型的なお姉さんが通っていて、目を楽しませてくれることもあったけど、2時間は長かった。
ようやくのことで、スーツケースが届き、ウユニ塩湖へ向かって出発。
しばらくすると、車が停まった。列車の墓場があるから見ていく、という。
観光メニューにはなかったのだが、現地ガイドさんとしては、大サービスのつもりだっただろう。鉄道ファンならよだれを流して喜ぶところだ。もっともウユニ湖へのツアーコースに明記されていることも多い場所だ。
この鉄道はイギリスが敷設したものだそうだ。銀などの鉱物資源を海外に運ぶためのものだったが、チリとの国境争いで、太平洋の出口を失ったために、ボリビア国内での輸送に使われていたが、資源も算出しなくなった1940年代以降は、放置されたままになっている、ということらしい。
こういうものも観光資源になるのね、とは思うけど、早くウユニ塩湖をみたいので、気もそぞろになる。
今晩のお泊りは、塩でできているというホテルだ。そこで、長靴に履き替えなければならない。ウユニ塩湖には水が張っていて、普通の靴では行けないのだ。そのためにわざわざ長靴を買ってスーツケースに入れてある。だからスーツケースが到着しないことにはウユニ観光にも行けなかったのだ。
車で40分くらい走っただろうか。小さな村があったりする。この近辺は観光業で成り立っているのだろう。雪を被ったアンデスの山が見える。ここは標高3600mだから、山は6000mはあるだろうか。
地平線の遠くに白く見えるのは、塩だろう。このあたりは、砂漠みたいだ。塩分が多くて植物が育たないのかもしれない。
アルパカのような動物の群れがいた。飼っているのでもなさそうだ。
だが、正直なところ、アルパカ、リャマ、ビクーニャの違いはわからない。パタゴニアで見たグアナコともそっくりだが、写真の動物よりグアナコは大きめだったので、これはグアナコではない。いずれもラクダ科に属する親戚同士のようだ。
さらに調べると、ラクダ科の中で、アルパカとビクーニャはビクーニャ属、リャマとグアナコはリャマ属となっていた。はっきりした違いを確認できなかったが、アルパカのほうは、家畜化もされたりして、首回りがずんぐりしている。いっぽう、ビクーニャはほっそりしていて、姿が美しい。
下の写真、これは本当にビクーニャじゃないかしら。ビクーニャは、アンデスの高地に生息する。ちょうど、このあたりではないか!! その毛は動物の中では一番細くて、高級品なので、乱獲されてきた、ということを聞いたことがある。だったら羊のように家畜化して毛を採取すればいいように思うのだけど難しいのかな。
左はペルーの国章に描かれているビクーニャ、右は、ボリビアの国章に描かれているアルパカ、鳥はコンドル。ビクーニャもアルパカも国を代表する動物なのだ。
さて、列車の墓場から1時間弱で、ようやく今晩泊まるホテルに着いた。塩でできたホテルといううたい文句なので、興味津々だ。入口はあっけないほど小さい。
土地はたっぷりあるから全部平屋のようだ。外装は塩ではないように見える。
ホテルの前には砂漠が広がっている。いや、砂漠ではなくてウユニ塩湖の端っこなんだろう。下の写真右下に、さっきのビクーニャらしき動物が3匹、草を食んでいる。このあたりは塩分が多くて草が生えないから、草をみつけるのも大変だと思う。
ホテルの屋内に入る。天井の窓から自然光が入っている。ここはホテルロビーだ。
ホテル受付の隣は、客用の団欒スペースになっている。壁やテーブルは岩塩の岩でできている。なるほどね、塩のホテルってこうなんだ~。塩といっても固まっていて岩とおんなじなんだ。
さて、ホテルの部屋にはまだ入れないので、ホテルのロビーでスーツケースを開けて長靴を取り出す。
いよいよ出発~~。
長靴を持ってこなかったツアー仲間もいて、その人たちは、ここから車で20分ほどのところにある別のホテルで長靴を借りた。下の写真はそのときに立ち寄った塩のホテル。私たちが泊まるホテルより数段大きくてきれい。
塩でできたホテルといううたい文句が日本で爆発的にヒットし、水たまりも観光資源になるということに気が付いた5年ほど前から急ピッチで塩でできたホテルを建築しているが、とても需要には追いつかないらしい。このホテルも真新しい。現在、塩でできたホテルは3軒ほどしかないそうだ。
以前は、ウユニ塩湖というと、乾季だけが観光シーズンだったが、水たまりのおかげで、今では雨季も観光シーズンになり、そのためにウユニは大発展をとげつつあるのだ。雨季の観光コースを開発したのは、5年ほど前、日本の某旅行会社だが、あっというまに他の日本の旅行会社も真似をはじめた。だからここは日本人が多い。テレビでも天空の鏡と称して特別番組が組まれたりしている。まだ日本以外の旅行客は少ないように見える。
岩塩を切り抜いてれんがのように積み上げていった柱。水に濡れても解けないそうだ。このあたりには木もなく、石もないから建築素材になるのは塩の固まりということらしい。
塩の岩は大理石のような色をしているが、ざらざらとした表面を残していて、なかなか趣がある。
この岩を研磨したらぴかぴかの大理石みたいになるのだろうか。だが研磨したものは、ついにお目にかからなかった。研磨すると、摩擦熱が発生すると思うが、その熱で岩は溶けてしまうのかもしれない。調べてみたが、わからなかった。
豊かな表情のウユニ塩湖 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
四駆に分乗して、いよいよウユニ塩湖の探検が始まる。
塩と土と水が入り混じったところを猛スピードで走る。道はあるんだかないんだか、わからない。運転手さんはどうやって方角がわかるのだろう。
水が溜まっていたりすると、雲を映してきれい。
水と土と塩がみぞれ状態になっていたりもする。
塩の上のあちこちに水たまりができていてとてもきれいだ。ブラジルのレンソイス白砂漠のようだ。いつか行きたいと思って、よく写真を眺めている。レンソイスはこれを巨大にしたような感じだと思う。もっともレンソイスは塩ではなくて白い砂だ。水はコバルトブルー。
水が少ないところもある。今は雨季から乾季に向けての端境期なので、水がなくなってきているのだろう。
ここは全部、塩。6角形ができている。自然界のものは収縮や膨張を繰り返すと、6角形になっていくということを以前調べたので、少し理解できるが、実際にみてみると改めて自然の凄さを感じる。走っている車から撮ったのでうまく撮れないけど、この6角形の写真をきれいに撮りたいものだ。
やがて車は水の中に入っていく。いつ水ばかりになったのか気づかないほどだった。
遠くに車の屋根に上っている人がいたので、望遠側にまわして撮った。
さて、さて、私たちも車を降りる地点まできた。
まずは記念写真。
下は、ツアー仲間。長靴をはいて、水の中をぽちゃぽちゃと歩いている。水は10cmもないくらいだ。
ホント、空と水が一体になっている!!
水の張ったウユニ湖でランチ [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
長靴を履いて水の中を歩くのは楽しいものだ。ぽちゃぽちゃという音も心地いい。歩くと少し抵抗感のある足元を感じながら、うきうきと歩き回る。
水は透明で、底の塩が白い。長靴といっしょに塩も写しておこう。
塩が真四角に結晶しているのが、角度によって光っている。塩の結晶は、すぐつかめそうにみえるが、固く大地にへばりついていてとれない。とがった小石と同じ感触だ。これでははだしでは痛くて歩けないだろう。
みんな、さっそくトリック写真で遊び始める。
遠くに車が停まっているのを背景にして、車を手のひらにのせたようにとっている人がいたので、便乗した。
手前の赤い人がカメラで、手のひらに車をのせた写真を撮っている。それを横から写したが、車の位置が2の腕になってしまった。トリック写真はモデルと撮る人の呼吸を合わせて微妙な調節が必要なのだ。
水の上で遊んでいるうちに、運転手さんたちが、ランチの支度をしてくれて、水の上で食事になった。
ビュッフェスタイルになっている。テーブルに赤いクロスまで用意して、ちょっとリッチなムードを作っている。
食事の後は、また景色を楽しむ。
カメラ遊びは、今度はUYUNIというアルファベットを水に映し出そうとしていた。
湖面にUYUNIの完成。
ペットボトルと一緒に写してみたが、これはうまくないね。
さて、のんびりと歩き回ったあと、再び車で移動。
途中にモニュメントが見えた。塩の岩でできている。右の旗はボリビア国旗、左はウユニのあるポトシ県の旗。
塩が6角形に結晶した水のないところを通ったり・・
水たまりのあるところを通ったり・・・
黒い小さな山に見えるのは、塩田の山がくずれたものだと思う。
塩と土と。
ウユニ塩湖に塩田 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
水の上でランチの後、また車で移動。今度は水のないところで下してくれた。
六角形を間近で見てみたかったのでうれしい。淵のところは塩が盛り上がっている。硬くて、車が通っても形がくずれたりしない。大自然はすごいことをするものだ。
以前、ここ
http://violine.blog.so-net.ne.jp/2014-01-19
とここ
http://violine.blog.so-net.ne.jp/2014-01-20
にも書いたが、六角形は、自然界のスーパーヒーローだと思う。
平面を無駄なく覆うことができる多角形は、三角形、四角形、六角形しかないのだが、六角形はその中でも、一番効率がいい。だから伸縮を繰り返すと、六角形になっていくというのはわかる。
だが、なぜ、ほとんど同じサイズの六角形になるのかがわからない。
蜂の巣、サッカーゴールの編み目、雪の結晶、カルボキシル基、アイルランドのジャイアンツコーズウェイコーストや東尋坊の岩など、六角形のものは世の中に多くて、それぞれの理由を調べていくとおもしろいと思う。
ここの6角形は人間の背丈の半分くらいの大きさだ。
だいぶ陸地に近づいたようだ。雪をかぶったアンデスの山が見える。下の白いのは塩。水ではなく。
またトリック写真がはじまった。
今度の完成形はこちら。
寝そべっているのがカメラの人、カメラの目の前にりんごをぶらさげている。少しはなれたところに、りんごを持ち上げる人、の構図だ。
次は、靴で人間を押しつぶそうとする図。
寝そべったカメラ担当、足で踏みつぶす人、助けて~という人、でできる構図。
なるほどね、こういうトリック写真は、乾いたところじゃないとできない。
トリック写真もいいけど、人のいない広々とした風景はもっといい。
また車で、今度は塩田。
塩なんて無尽蔵にあるのにどうして塩田を作るのだろうと思うけど。食べる塩は水を干して作ったほうがいいのかな。ひとつの大きさは人間の半分くらい。
岸が近づいてホテルがみえてきたが、これは私たちの泊まるところではなく、新しくできたもの。
水が少なくなっている干潟状態の風景も素晴らしい。遠くに塩田の跡が残っている。
ようやく私たちのホテルが見えた。車の後部座席から撮ったので、フロントガラスなどの汚れが入ってしまっている。結構大きいホテルであることがわかる。増築を積み重ねた様子が見て取れる。
ホテルの写真なんて、歩いて撮りにいけばいいとは思うのだが、ここは標高3600m。歩くと息が切れる。塩の上では気も張っていて、なんとか歩いてはいたが、ホテルに着いたらどっと疲れが出る。
さて、しばらく休憩して今度は夕日を見に行く。
夕焼けのウユニ塩湖 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
夕方の午後6時に夕日を見に行った。夕日なんて、ホテルからでも見えるのだが、湖面に映る夕日をみようというわけだ。車は塩でみぞれ状態の湖面を猛スピードで走る。
水が張ったところまで到達した。光が弱くなった夕方は一段と陰影が濃い。
まだまだ水の中を走る。
夕日鑑賞ポイントに到着したところで、記念撮影。まだ太陽が明るい。
ツアー仲間も車から降りてくる。1台の車は3人乗り。
太陽の左方向は、白い雲の下に灰色の雲がたちこめている。夕日に染まるかなぁ。
遠くにも車が停まって、日没を待っている。カメラを望遠側にまわして、かなり拡大した。車を鏡の上にでも置いたようにみえる。
あちこち歩きまわり、写真を撮る以外、やることもない。こういう時間の過ごし方は本当に久しぶりだ。
遠くにも夕日を眺めている人がいたので、思い切り望遠にして撮ってみたり・・・・・
ツアー仲間もカメラを持ってうろうろ。
あっちいったり・・・
ポーズをとったり・・・・・・
大分お日様が地平線に近くなった。
また、うろうろ・・・
お日様はまだ沈んでいない。
太陽と反対側の雲が赤くなり始めた。
もうすぐ、太陽が隠れる!!
最後の輝き・・・・・
残照のウユニ塩湖 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
太陽はとうとう沈んでしまった。
もうカメラを向けてもまぶしくない。
名残惜しいので、望遠側にまわしてみても、黄金の光が残るだけ。
だが、太陽と反対側は、まだまだ明るい。
すっかりなりをひそめた太陽。
黄金の光が濃くなっていく。
太陽の左側にあった雲が赤く染まっていく。低く垂れ込めた雲は、やっぱり赤くならない。
遠くにいる車がほんのりピンクなので、望遠側に拡大してみてみる。夕焼けの残照で、おもしろい色が出るものだ。
太陽の名残も闇につつまれはじめる。
だけど、太陽と反対側は、まだまだこれから。
もうみんな太陽のあった方角をみていない。新しくはじまった天空の一大イベントに目を向ける。
こんなに雄大な赤い雲をみたのははじめて・・・・・
太陽の左側もピンクに染まっていく。
天空を羽ばたいている火の鳥が、ひときわ、おおきく羽ばたく。
火の鳥は、やさしいピンクに変わっていく。
もう火の鳥もお休みの時間かな。
幕は下りました・・・・
さぁ、帰ろう。
おなかがすいた・・・・
暗くならないうちにかえらなきゃぁ・・・・
日の出のウユニ塩湖 [マチュピチュ・ウユニ塩湖]
観光8日目
朝の5時半にウユニ塩湖の日の出を見に行った。
遠くには、もう日の出を待っている人たちが見える。
昨日、夕日が落ちて行ったあたりは、夜明け前の静けさの中で眠っている。
待っている間も、さすがに冷える。カメラ遊びもまだ元気が出ない。湖面が波打っているように見える。
なかなか、事態が進展しない。
その原因は、太陽が昇るあたりに、黒い雲がたちふさがっていることにあるらしい。車も人も太陽を待ちわびて一列に並んで待っているのが見える。
ちょっと望遠で撮ってみたら日本画みたいになった。
もう、帰ろう、と言い始めたとき、少し、光があがってきた。
お~~っ、日の出だ~。
今日の輝かしい1日を予感させる光が湖面を照らす。
まずは、記念写真を・・・
下写真の右側に長い棒のような影があるのが、私、Ada。
水が浅くて、塩の結晶が顔を出していて、それがきらきら光っている。
急にあたりがそわそわとしはじめて、記念写真を撮り始める。
ここは、湖面が浅いが、少し向こうは、コバルトブルーの水だ。
陽が昇ったので、また車で引返す。なんだか、あっけない。
水はどんどん浅くなっていくようだ。塩が輝いて見える。
まるで雪道みたいなところも。
小高いホテルに到着したのは7時15分。雲のおかげでずいぶん時間がかかった日の出だった。